吾妻鏡第十六巻 建久十年(1199)四月大十二日癸酉
諸人の訴訟ごとを頼家様が直接判断をすることは、止めにしましょう。
今後は、全ての訴訟を北条時政殿・同四郎義時主・兵庫頭広元さん・大夫属入道三善善信・掃部頭中原親能〔京都に居ます〕・三浦介義澄・八田右衛門尉知家・和田左衛門尉義盛・比企右衛門尉能員・藤九郎蓮西(安達盛長)・足立左衛門尉遠元・梶原平三景時・民部大夫行政(二階堂)達が会議をした上で判断を下すようにしましょう。その他の者達が安易に訴訟問題を扱うべきではないと、決めたんだとさ。
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諸人の訴訟ごとを頼家様が直接判断をすることは、止めにしましょう。
今後は、全ての訴訟を北条時政殿・同四郎義時主・兵庫頭広元さん・大夫属入道三善善信・掃部頭中原親能〔京都に居ます〕・三浦介義澄・八田右衛門尉知家・和田左衛門尉義盛・比企右衛門尉能員・藤九郎蓮西(安達盛長)・足立左衛門尉遠元・梶原平三景時・民部大夫行政(二階堂)達が会議をした上で判断を下すようにしましょう。その他の者達が安易に訴訟問題を扱うべきではないと、決めたんだとさ。
裁判を担当する問注所を幕府の敷地外に建てられます。大夫属入道三善善信を筆頭の執事に、今日始めて指示がありました。
これは、亡くなった先の将軍の時代に、幕府内の一箇所を指定して、原告の訴人、被告の論人を呼び出して対決をさせていましたが、関係者の人々が群れ集って騒がしいし、無礼を働くし、良くない騒ぎの基になる。こういうことは他所でやるべきじゃないかと、内内で議論が重ねられてきましたが、熊谷次郎直実と久下権守直光が対決をした時に、直実は旨く弁解が出来ないのを悔しんで、西の侍所で髷を切った事があってから、御所での実施を止めて、三善善信の家を仮にその場所としてきました。
今度は、別に建物を新造するんだとさ。
中将家頼家様は、特別な願いがあるので、伊勢神宮の領地六箇所の地頭職を止めさせました。
そのかわり領地の内では、謀反人や犯罪者が出ても、伊勢神宮の方で捕まえて突き出すようにしなさい。それとその詳細を報告するように、神主に言い送りました。
それなのに、その六箇所の内の、尾張国(愛知県)一柳神宮荘園は、神主の方から領地管理人をよこして、地頭を追い出すように命令を出し、地頭の取り分を差し押さえてしまったと聞こえてきたが、故右大将殿頼朝様がお亡くなりになられて、将軍が変った機会に免除を出そうとした矢先に、その暴挙に出たことはとても癪に障る残念な事である。詳しく調べる必要があるのではないかと、同様に命じられました。六箇所の免除の手紙の書いてある内容は、
伊勢神宮の御領
遠江国(静岡県)蒲御厨 尾張国(愛知県)一柳御厨
三河国(愛知県)飽海本神戸 新神戸 大津神戸
伊良湖御厨軍司警察担当
右のその御厨などの地頭は、特別な願いがあって、そこの地頭職を止めさせます。鎌倉の中将頼家様の命令書はこの通り、命じられて書きました。
建久十年三月二十三日 兵庫頭(大江広元)
伊勢神宮の神主殿
佐々木三郎兵衛尉盛綱法師西念が上申書を出しました。
私が少ない領地に落ちぶれはてたのは、頼朝様の時代とは違ってしまい、単に恩賞の多少のことを云ってる訳ではありません。それどころか現在支配している領地までも取上げられてしまいました。天運の無さを恥ずかしがるどころか、猶も地の神の配慮すらも無いと困っているんだとさ。
乙姫は日毎にやつれて行ってしまうので、治療をするために針の名人の丹波時長を呼びましだが、盛んに辞退をしてどうしても招来を聞きません。その時長は現在では一番の名医との評判があるので、もう一度決めて、今日その為の使いを京へ上らせました。それでも未だ嫌がるようなら、仙洞の上皇に申し出るよう在京御家人に伝えるようにとの事でした。
晴れです。鶴岡八幡宮の先月予定の神へ祈る儀式を、今日実施しました。
正月に頼朝様がお亡くなりになり、鎌倉中にその穢れがあふれていたので、式典の日を延期していたのです。
晴れです。今月から、毎月中将頼家様の災いを除くため今年の星を祈る儀式を行うように、京都在住の主計長の安陪資元に命令を出されました。その内容を、大江広元が承って書き、雑用に京都へ持って行かせましたとさ。
雨降りです。後藤基綱に罪があるので、讃岐の守護を解任し、近藤七國平に与えられました。
頼朝将軍が決められた規則に従わず、変えてしまった事の始めです。
先の将軍頼朝の娘の乙姫がこの前から熱の出る病気になっている。かなり重症なので母の政子は神社に祈願をし、寺々に経を読ませている。また、御所では一字金輪法のお経をあげさせた。阿野全成が経をあげました。
故将軍頼朝様の四十九日の法事です。指導僧は題学法眼行慈だそうだ。
京都からの使いが到着しました。先日の一日の丑の刻(夜中の二時頃)に、石清水八幡宮で火事がありました。しかし、寝殿やお堂や五重塔は焼けずに済みましたとさ。
また、五日の大原野での孔子と孔子の門人十人の画像を祀る儀式は、関東での穢れのため延期したそうです。
晴れました。近衛将軍頼家様が、先月二十日に中将に出世しました。同じ月の二十六日の天皇の命に、前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで、鎌倉御家人を使って前の通り、諸国を守るように支配してください。とあります。その手紙が着いたので、幕府の新将軍として政務を始める儀式の吉書始め式を行いました。清原大夫が日時を占いましたとさ。
北条時政殿、兵庫頭大江広元さん、三浦介義澄、前大和守源光行さん、中宮大夫属入道三善善信、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、梶原平三景時〔軍事・警察担当長官〕、藤原民部丞二階堂行光、平民部烝盛時、右京進中原仲業、文章生三善宣衡、政務事務所の政所に並んで座りました。大夫属入道三善善信が吉書を案分しました。武蔵国久良岐郡の事柄でだそうです。
中原仲業が清書をして、大江広元がこれを持って御所へ行きました。近衛将軍頼家は、私的場所の寝殿でこれを開いて見ました。これは、前の将軍の死が京都へ知らされてから、まだ二十日も経っていないけれども、天皇のお言葉は大切なものなので、特別にこの命令がありました。そこで、内輪だけでと云うことにして、この儀式を行いましたとさ。
将軍頼朝様は、藤九郎盛長の尼縄の家へ出かけられました。今夜はお泊りだそうな。
伊豆国の願成就院内に、寺を守る神社を祀るようにと、命令がありました。
それは、先日来、寺の敷地内で毎晩おかしなことがあるからです。それは、ある時は石つぶてが飛んできて、お堂の扉を壊したり、天井が人が歩いているみたいにぎしぎしと揺れたりするのだそうです。怪しさは徳には勝てないはずだ。神や仏への崇拝に偽りがなければ、魔物の妨げなんか、何を恐れることがあろうか。
千葉介常胤が、褒賞要望の文書を提出しました。
それは、「戦場で魚の鱗の様にグループが並んだ陣営や、横に展開する鶴の翼の様な陣営に向かって、何時も手柄を立てている様子を描いております。また、夜の警備や昼間の巡回もおろそかにしていない長年の勤めを重ねてきました。内々にその忠節心を云うならば、たぶん比べる相手が無いであろう。老いた身には、後日の栄光まで待てないので、今すぐにでも褒美を欲しいのです。早く生きている間に褒美に預り、大勢の子孫のために残したいのです」と書いています。
「特に我が家と関係のあるのだと云って、美濃国蜂屋庄を欲しい。」と云いました。
「手柄を本当に世に施しており、他を哀れむことも他の人以上である。だから、何度も恩賞を与えてきました。なお、追加して褒めることも忘れてはいません。しかし、蜂屋庄については、故後白河院の御世に、院の命令によって地頭職を廃止しているので、今さら朝廷に申し出て地頭取り分を設置しても収入にならないよ。他の適当な土地を、必ず用意するので。」と、ご返事を丁寧になされました。
それで、千葉介常胤はとても涙を流して、「真心のこもっているお心が現れております。将軍の御配慮は尊いものです。こうなったらその地を戴かなくても、恨みを持つようなことはありません」と申し上げましたとさ。
相模・武蔵両国の年貢の糸や真綿を京都へ送りました。新藤次鎌田俊長が持って行きましたとさ
遠江国の地侍の勝間田玄番助が、領地を取り上げられました。
これは、この国の国府(又は国分寺)の光堂で、乱闘の上、刃傷沙汰を起こしたからです。
駿河国富士郡の年貢として真綿千両を京都へ送られました。雑用の常清と時沢が使いをしましたとさ。
伊予国越智郡(愛媛県今治市)の地頭職を止めさせました。(地頭撤退)
ここは、関白殿下九条兼実様が上級荘園領主だからです。
北条五郎時連(後に時房に改名)が頼朝様の使いとして、三島神社へお参りです。奉納の馬や剣などの寄付を持っていきましたとさ。
又。菊太三郎家正〔続けて潔斎しているそうな〕も命令を受け同様に出発です。三島神社へ千度詣でのためだとさ。
この二つの事は、先日の怪しい出来事を神様へ謝るためなのだそうな。
北条時政殿が伊豆国から走って参りました。
「一昨日〔十八日〕三島神社の第三殿の上に、カラスが首を切られて死んでいたんです」と報告しました。
相模国の大庭御厨の俣野郷(藤沢市西俣野)に大日如来を祀るお堂があります。
今日、そこへ田畑を寄付しました。無期限に、仏様へのお灯明の油代にあてるのです。
このお堂は、亡くなった俣野五郎景久が帰依していお寺です。御本尊は、昔権五郎景政が生きていた頃に、伊勢神宮のお社は二十年に一度式年遷宮で建て替えの時、その古い柱を下し賜りそれで建設したそうです。権大僧都頼親の部屋で開眼供養の儀式を行い、東国の人々を守ってもらうよう、祈りを込めて安置しました。仏様の御心の現れがあきらかです。仏性の世界内陣も俗人の世界下界もともに御利益を疑う必要は無いでしょう。その遺産をついだ管理人の俣野五郎景久が滅びてしまったので、お堂や建物も傾いてしまっております。仏像は、雨露にさらされ、俣野景久の未亡人は日夜そのことを嘆いて、寝ても覚めてもその修理を思いつめていました。
三浦介義澄は、この話を聞きつけて、元々仏教に熱心なので、お寺の再興と繁栄とを取り次ぎました。
「いくら俣野五郎景久が頼朝様の反逆者だとは云っても、先祖の権五郎景政は、源氏の忠義な家来でした。本尊の材木の起源も、建物の由緒も、施主が当初に誓約したような形通りに、建物などを守るようにしなさい。」と、命令があり、寄付がありましたとさ。
北条時政殿が伊豆国へ出かけました。それは、三島神社の神事に立ち会うためだそうな。
鶴岡八幡宮のお神楽の奉納です。将軍頼朝様のお参りです。
楽人の大江左衛門尉景節が、師匠相傳の門外不出の歌を歌いました。
そしたら急に風が吹いて雨が降りました。これは神様がお喜びになったしるしだそうです。
下河辺庄司行平については、将軍頼朝様が特に大事にしているあまり、子孫にまで源氏一族に準じるように、今日覚書を与えましたとさ。
平泉毛越寺内の嘉祥寺の領地、長門国川棚庄(山口県下関市豊浦町川棚)について、守護人が荘園上級領主の領家の年貢を横取りしたと、朝廷が云ってきました。そこについては、去る文治年間に(1185-1190)後白河院からの命令で地頭は廃止している。
今さら無茶をしているのは、罰を食らうことになる。ちゃんと止めておくように今日、命令書を出させましたとさ。
将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りだそうです。
護念上人茲応が、越後国へ帰りました。
頼朝様は引き留めましたが「大勢の人と接するのは望む所ではありませんので」と答えて、早々に出発をしてしまいましたとさ。
若君万寿様(数えの十四歳)が、三浦からお帰りです。三浦介義澄は土産に引き出物を用意しました。
その帰りのついでに和田左衛門尉義盛の家へ寄りましたとさ。
若君万寿様(数えの十四歳)が、鶴岡八幡宮と三浦の久里浜大明神(住吉神社)にお参りです。
北条五郎時連、比企右衛門尉能員以下五十余人もお供をしました。
頼朝様の守り本尊の仏像をお祀りするお堂の造作始めです。
そこで、大友左近將監能直と右京進仲業が担当します。将軍頼朝様も見物に来ました。
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