吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)十月大二十日辛未
朝廷へ献納する馬三頭を続けて京都へ贈ります。今朝出発したそうです。
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朝廷へ献納する馬三頭を続けて京都へ贈ります。今朝出発したそうです。
美濃国の地頭達が、年貢を滞納していると、朝廷から云ってきたので、早く納めるようにと、今日大内相模守惟義に命令を出しましたとさ。
大姫君(数え年18歳)は普段から病気です。寝食が普通ではなく、心身も通常でなくなっています。邪気が取り付いているからでしょうか。
護念上人が頼朝様の命令でこれを加持祈祷しましたので、今日は治ってしまいました。きちんとやったので、すぐその効験が現れたと、将軍頼朝様は特に大喜びをしました。褒美を与え、そのついでに仏法興隆のために庄園を一箇所不動堂に寄付したいと申し出ましたけど、思うところがあるのでとあえて承諾をしませんでしたとさ。
えらい聖者が何を考えているのかなんて、一般の凡人にはわかりませんね。
故木曽左馬頭義仲の文書代筆担当側近の大夫坊覚明と云う者がおります。
元々は奈良の学問を修める僧侶です。木曽義仲が滅ぼされた後、元の奈良の寺へ帰り、信救得業と名乗っていました。
今は、箱根山(箱根権現)に住んでいると、お聞きになられたので、箱根山の外や鎌倉の中それに関東へ出てはいけないと、今日、手紙を箱根神社の長に出させましたとさ。
護念上人茲応が、越後国からやってまいりました。佐々木三郎兵衛尉盛綱が取り持ちました。
頼朝様はお会いになられました。この人は、故六条廷尉禅門為義の末っ子で、頼朝様の叔父にあたります。
それなので、礼儀を厚くお迎えしました。世俗を離れて、顕教密教両方の仏法を勉学なされ、そればかりか徳を積む修行も積んでおります。近年、越後国加治庄の菅谷山に比叡山の無動寺の地形をまねて、一つのお堂を建立して、不動明王像を祀りました。その隣に庵を立てて住んでおります。修行は日々新たに積んでおります。
朝廷へ捧げる馬八頭を京都へ贈りました。和泉大掾国守がこれを連れて行きましたとさ。
鶴岡八幡宮の臨時の祭事です。将軍頼朝様はお参りです。江間太郎泰時、北条五郎時連、伊豆守山名義範、豊後守毛呂季光、大江左衛門大夫成季以下がお供をしましたとさ。
お経(大般若経)をあげました。指導僧は大学法行慈だそうです。
京都朝廷の天文博士の資元さんの先月十三日付の手紙が届きました。
金星の軌道の変化について、一巻の上申書を添えて送ってきました。
武蔵国を始めとする頼朝が管理している関東御分国の税金について、最上級荘園領主の本所への年貢について、日を置かずに処理するように、厳しい命令がありました。
それなのに今年は、農民達が飢饉だと嘆いて云うので、おそらく納期までの納付は難しいだろうと、担当の比企右衛門尉能員、散位藤原行政が報告しましたとさ。
鷹狩を止めるように、諸国の御家人に命じられました。厳重な命令に違反する連中は、罰則を加えます。但し、神社へのお供物としての鷹の獲物は、制限はしないとおっしゃいました。
又、故藤原秀衡入道の未亡人が現在でも生存されておられるので、特に大切にするように、葛西兵衛尉清重と井沢左近将監家景(留守)達に命じられましたとさ。
この二人は、奥州奉行人と留守所職の取締役だからです。
前律師小川忠快は三浦へ向かいました。
その訳は、三浦介義澄が引き受けたいと申し出ていたからです。学問の知識が広く深いからです。三浦介義澄は特に仏教を信仰しているからです。
中納言禅師増盛は、勝長寿院に住むことになりました(住職か?)。
御家人の多くが新しい領地を貰いました。大江広元・主計允藤原行政・武藤頼平が事務を担当しました。
新藤次藤井俊長と小中太中原光家は、頼朝様が管理している関東御分国を巡る検査員です。
その用事は、作物の出来が良くない飢饉だからです。
京都の三十三間堂蓮華王院の領地、大和国藤井庄について、岡冠者頼基は、関東の源氏の親戚の権威を利用して、勝手に地頭だと名乗って、土地の権利を奪っていると、上級荘園領主(領家)が訴えてきました。
「このことについては、以前の文治年中(1185-1190)に、後白河院の命令で、地頭の職は廃止し終えております。今さら、関東の権限はないので、文句は受け付けません」と、今日ご返事を出されましたとさ。
鶴岡八幡宮の神事(重陽の節句)です。将軍頼朝様もお参りです。
そこで、流鏑馬を七騎、競走馬三度、相撲十番を奉納しましたとさ。
陸奥国平泉の毛越寺の塔は、特に修理をするように、奥州奉行の葛西兵衛尉清重と現地管理人の留守所職の井沢左近将監家景達に命じられました。それは、倒れかかっていると云ってきたからです。
泰衡は滅ぼしても、その寺院の建築物は元のように維持するように、前に言いつけておいたからです。なんと仏教施設の興隆へのお志は、前代未聞の功徳ですね。
鶴岡八幡宮の上下の宮の常に絶やさない灯明の油代について、大物の御家人の大名に負担させるために、月ごとの順番を組んで差し出させるように、普段決めておりましたが、たまに滞納があると聞いております。
そこで、今日から人数を増やすことにして、日ごとの順番に決めました。これなら、一度の負担が少ないので、滞納はないでしょう。その内の月初めの五日間は、頼朝の分として幕府の負担です。毎日八幡宮寺へ持っていくように、足立清常の所属に文書を出すことにしたそうです。二階堂藤原行政が担当します。
関東から東側の荘園で、強盗・窃盗の盗人や博打打ちなど、悪いことをする連中が隠れているあちこちでは、そこの地頭職を取り上げて、悪人を捕えて幕府へ連れ出した人に与えるようにと、陸奥・出羽の国々へ命じられましたとさ。
歯の痛みが、いくらか良くなったので、船で海路を取り、三浦三崎へ行かれました。遊覧しました。
京都から帰ってきて未だ一度もやっていなかったからです。
善光寺参りは、しばらく延期することにしました。
もうじき寒い冬になってしまうので、来春にしようと御家人たちに知らせましたとさ。
将軍頼朝様は、歯痛が再発しましたとさ。
御台所政子さまが、御所へお戻りになられました。
軽い喪中なので、八幡宮の神事がある間は、穢れるといけないのでよそへ行っておられたのだそうです。
今日も又八幡宮へお参りです。馬場での行事が有りました。流鏑馬の射手十六騎。皆、上手な人を選ばれました。
一番 三浦和田五郎義長
二番 里見太郎義成
三番 武田小五郎 (武田五郎信光の五男)
四番 東平太重胤
五番 榛谷四郎重朝
六番 葛西十郎 (葛西三郎清重の十男)
七番 海野小太郎幸氏
八番 愛甲三郎季隆
九番 伊東四郎家光
十番 氏家太郎公頼
十一番 八田三郎 (八田四郎知家の三男)
十二番 結城七郎朝光
十三番 下河辺四郎政義
十四番 小山又四郎 (小山四郎朝政の四男)
十五番 江間太郎泰時
十六番 梶原三郎兵衛尉景茂
鶴岡八幡宮の捕えられた生き物を放ち贖罪する儀式の放生会です。
将軍頼朝様は、お参りです。梶原源太左衛門尉景季が太刀持ちで、望月三郎重隆が弓箭を背負ってます。舞楽の奉納がありました。
伊豆守山名義範、豊後守毛呂季光、千葉介常胤、三浦介義澄、小山左衛門尉朝政、八田右衛門尉知家、比企右衛門尉能員、足立左衛門尉遠元達が、呼ばれて回廊にお供に来てましたとさ。
将軍頼朝様は、放生会に奉納する流鏑馬の射手達を引き連れて、由比の浦でメンバーの弓箭の腕前をお試しになられ、十六人を選ばれましたとさ。
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