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2024年6月

2024年6月30日 (日)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)六月小十八日辛未

御台所政子様と姫君(数え年18歳)が私的に石清水八幡宮を始めとする古刹の霊地を巡礼しましたとさ。

2024年6月29日 (土)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)六月小十四日丁卯

下河辺庄司行平が、平家の家来の桂兵衛尉貞兼を捕えて差し出しました。
普段、西京に隠れていたそうです。平家の残党を探していたところなのです。

2024年6月28日 (金)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)六月小十三日丙寅

頼朝様は、故後白河法皇の法華堂へ参られました。

2024年6月27日 (木)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)六月小八日辛酉

将軍頼朝様は、後鳥羽天皇の六条殿へ参られましたとさ。

2024年6月26日 (水)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)六月小三日丙辰

将軍頼朝様の若公〔一万公。年十四。礼装の狩衣〕が京都御所へ上がりました。網代編みの牛車に乗っていきました。左馬頭源隆保様が一緒なのは、若君の面倒を見るためです。

 お供の人は、
 相模守大内惟義   伊豆守山名義範
 左近将監大友能直  左衛門尉和田義盛
 榛谷四郎重朝    梶原源太左衛門尉景季
 葛西左兵衛尉清重  千葉境平次常秀
 梶原三郎兵衛尉景茂 右京進中原季時〔それぞれ礼装の狩衣で馬に乗っています〕
 小山長沼五郎宗政  佐々木仲務丞経高〔それぞれ直垂で牛車の左右に付きました。〕

天皇が射技を見るための弓場殿で剣を与えられました。宰相中将花山院忠経がこれを手渡しました。

2024年6月25日 (火)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十九日癸丑

重源上人が現れてきました。将軍頼朝様の命令を重要に受け取ったからです。
頼朝様の関東へのお帰りが、彼の行方を探していて延期になりました。来月になると、さぞかし祗薗御霊会の厄払い式典で大変であろうからか。

2024年6月24日 (月)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十四日戊申

前掃部頭中原親能は、将軍頼朝様の代理として、高野山へ向かいました。
それは、東大寺の重源上人が先日の十三日に行方をくらまし、高野山にいると最近噂を聞いたので、京都へ戻られるように説得するためなのです。

2024年6月23日 (日)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十三日丁未

後鳥羽上皇の六条殿へ参られました。
出てきた後、後白河院の法華堂〔法住寺〕へお参りをしました。お坊さんたちにお布施をあげましたとさ。

2024年6月22日 (土)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十二日丙午

将軍頼朝様は、京都御所へお上りになられました。
そのついでに、摂政九条兼実とお会いになりました。都や地方の政治向きについて、話し合いは沢山ありましたとさ。

2024年6月21日 (金)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十一日乙巳

夕暮れになって天王寺から京都へ戻られました。

2024年6月20日 (木)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小二十日甲辰

曇り時々小雨。卯の刻(午前六時頃)に天王寺へ出発です。御家人たちに割り当てて人夫を出させました。
それは頼朝様の船を曳かせるためです。京都の町中は牛車で、小椋池の鳥羽殿から船にしました。丹後二品局高階栄子の船を借りました。一条二品禅室能保様と一緒に行こうと約束していましたが、一条能保は船を用意して、道路に面した荘園に雑用を割り当てていると、耳にしました。これは、頼朝の考えと違ったので、それは受ける訳にはいかないので、一緒に行くのをやめることにしたのだそうです。日中に渡辺の津(港)に到着しました。ここからは牛車です。御台所政子さまも牛車を並べます。女官達の衣服の裾をのぞかせた牛車が続きます。

それぞれ行列をそろえました。警護の軍隊などのお供は皆、馬に乗っています。
 先を行く警護兵
  畠山次郎重忠   千葉相馬次郎師常
  村上判官代基国  新田蔵人義兼
  安房判官代高重  所雑色基重
  武藤大蔵丞頼平  野三刑部丞成綱
  加藤次景廉    土肥先次郎惟平
  千葉三郎次郎   小野寺太郎道綱
  梶原刑部烝朝景  糟谷藤太兵衛尉有季
  宇佐美三郎助茂  和田五郎義長
  狩野介宗茂    佐々木仲務丞経高
  千葉境兵衛尉常秀 土屋兵衛尉義清
  後藤左衛門尉基清 葛西兵衛尉清重
  佐原左衛門尉義連 比企右衛門尉能員
  下河辺庄司行平  榛谷四郎重朝
 頼朝様の牛車
 すぐ後ろのお供(水干)
  源蔵人大夫頼兼  越後守頼房
  相模守大内惟義  上総介足利義兼
  伊豆守山名義範  前掃部頭中原親能
  豊後守毛呂季光  前因幡守大江広元
  左衛門尉小山朝政 右衛門尉八田知家
  左近将監大友能直 右京進藤原季時
  三浦介義澄    梶原平三景時
 後へ続く警護兵
  北条小四郎義時  小山結城七郎朝光
  修理亮関瀬義盛  奈古蔵人義行
  里見太郎義成   浅利冠者長義
  武田兵衛尉有義  南部三郎光行
  伊沢五郎武田信光 村山七郎義直
  北条五郎時連   加々美二郎長清
  八田左衛門尉知重 梶原源太左衛門尉景季
  阿曽沼小次郎親綱 和田三郎義実
  佐々木三郎兵衛尉盛綱 大井兵三次郎実春
  小山五郎長沼宗政 所六郎朝光
  氏家五郎公頼   伊東四郎成親
  稲毛三郎重成   宇都宮所信房
  千葉新介胤正   足立左衛門尉遠元
 一番後ろ 和田左衛門尉義盛〔家族の侍と家来を連れている〕

正午頃に天王寺へ着きました。まず念仏所へ入りました〔寺の外〕続いて御本尊へのお参りです。最高責任者長吏定恵法親王が、前もって洗礼の場の灌頂堂でお待ちになられておりました。将軍頼朝様はすぐに挨拶をされました。次ぐに天王寺の寺宝を拝見しました。その後法親王はお帰りになり、頼朝様も宿舎へ帰られました。その後、剣〔銀で拵え、蒔絵が施されています〕を聖徳太子を祀る太子堂に奉納しました。馬一頭〔糟毛、銀作りの鞍をおく、一揃えの房のついた尻にかける飾りの鞦を掛けています〕を法親王に引き送らせました。小山左衛門尉朝政が使いをして、剣については法親王が使いを朝政に付けて、宝蔵へ納められたそうです。その他に絹の布類を寺中の僧侶に与えられましたとさ。

2024年6月19日 (水)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小十八日壬寅

将軍頼朝様は、天王寺へお参りに行くのですが、途中は船(淀川)をお使いになられるようです。
それは、陸路は大変だと一条二品禅室能保様が申されるからです。しかし、この事により、公卿どもが旅の途中のお世話をするために、負担を自分の所領に分配するようにと、一部では云って来たり、噂が飛んだりしたので、将軍頼朝様は特に驚かれました。早くやめるようにと、それぞれに伝えさせました。
これは、仏縁にめぐり合うために、聖地へお参りをする計画である。もし、他人に費用を使わせては、かえって仏様のお気持ちに背くことになるのではないか。特に謹んで遠慮すべきだそうな。
中国後漢の楊震は、黄金のわいろを辞退し、わいろへの恥を天・地・汝・我の四者に知られると配慮をした。唐の玄宗皇帝は驪山宮(楊貴妃のための華清宮)を造り、一度も行幸がしなかったと云う名誉を残しました。
今人々の財産を大切に思い、恐れ多くもご自分の用事を後回しにしました。節約倹約を色々考えて推し量ることは、なんと古の人々を超えていることでしょう。後でこの話を聞いた人で、褒め称えない人はありませんでしたとさ。

2024年6月18日 (火)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小十五日己亥

今日の夕方に、六条若宮あたりで、三浦介義澄の家来が足利五郎の下っ端と乱闘を始めました。
それなので、和田左衛門尉義盛と佐原左衛門尉義連以下が三浦義澄の旅館に集まりました。又、小山左衛門尉朝政や小山長沼五郎宗政と小山結城七郎朝光以下、大胡・佐貫の連中も足利の宿へ集まりました。
将軍頼朝様は、梶原平三景時を双方へ行かせて、和睦するように命じられたので、夜になって静かに収まりましたとさ。

2024年6月17日 (月)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小十日甲午

熊野神宮長官の湛増が、若君に鎧を献上しました。
将軍頼朝様は、お会いになられました。とてもお喜びでおられましたとさ。

2024年6月16日 (日)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)五月小三日丁亥

将軍頼朝様は、剣を鞍馬寺へ奉納しました。相模守大内惟義が代参しました。

2024年6月15日 (土)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小二十七日壬午

将軍頼朝様は、梶原平三景時を代参として、住吉大社へ幣帛(布)を納め、馬を奉納しました。
夕方になって梶原平三景時は神社に着いて、和歌一首を釣殿の柱に貼ってきましたとさ。
 わが君の手向けの駒を引き連れて、行く末遠き印表せ
 (私のご主人様から奉納のために預かってきた馬を連れてきましたので、その未来は遠くまであると神の意志を表してくださいね)

2024年6月14日 (金)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小二十四日己卯

後白河法皇の長講堂の領地七か所の荘園は、以前の通りに年貢を納めるように、決まりましたとさ。
これは、将軍頼朝様が命令して実施させたからです。

参考この命令によって長講堂領は宣陽門院のものになった。

2024年6月13日 (木)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小二十二日丁丑

将軍頼朝様は、今日も宮中へ参られましたとさ。

2024年6月12日 (水)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小二十一日丙子

将軍頼朝様は宮中へ参られました。又、宣陽門院へも行かれました。
後白河法皇の長講堂の領地七か所は、法王の遺言通り、荘園として引き継ぐように、お決めになられましたとさ。

2024年6月11日 (火)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小十七日壬申

丹後ニ品局(高階栄子)が六波羅の館にきました。政子様と姫公が対面されました。」
今日、摂政九条兼実が賀茂神社へお参りをされるとのことです。
それで将軍頼朝様は、御家人達に命じられて云うのには、「これを見物するために出かけてはいけない。」とのことでした。それは、頼朝様が見に行かないからです。

2024年6月10日 (月)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小十五日庚午

晴れですが、申の刻(午後四時頃)から雨になりました。
今日、将軍頼朝様は石清水八幡宮へお参りに行かれました。若君も牛車に同乗しましたとさ。伊賀守田村仲教・大内相模守惟義・毛呂豊後守季光が先払いです。警護の騎兵二十騎が将軍様の前後に分かれたお供をしました。
 前の護衛兵
  北条小四郎義時   小山左衛門尉朝政
  三浦兵衛尉義村   葛西兵衛尉清重
  大友左近将監能直  新田四郎忠常
  後藤左衛門尉基清  八田左衛門尉朝重
  里見太郎義成    武田五郎信光
 後の護衛兵
  千葉新介胤正    土屋兵衛尉義清
  稲毛三郎重成    梶原左衛門尉景季
  佐々木左衛門尉定綱 土肥先二郎
  足立左衛門尉遠元  比企右衛門尉能員
  小山七郎朝光    南部三郎光行

2024年6月 9日 (日)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小十二日丁卯

民部省長官の吉田経房卿が六波羅の屋敷を訪れました。将軍頼朝様はお会いになり、お酒をふるまわれました。大江広元が同席し給仕をしましたとさ。
その間に、亡くなられた後白河法皇時代の政治の話や、現在の政務状況など、話し合いは何時間にも及びましたとさ。
その客人がお帰りになられた後、砂金や馬を送り届けさせました。前掃部頭中原親能が代わりに届けましたとさ。

2024年6月 8日 (土)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小十日乙丑

将軍頼朝様は、京都御所へお上りになられました。お供の兵隊が十騎、牛車の後ろに続きました。
 小山左衛門尉朝政   北条五郎時連
 宇佐美三郎祐茂    佐々木三郎兵衛尉盛綱
 三浦十郎左衛門尉義連 梶原三郎兵衛尉景茂
 葛西兵衛尉清重    加藤二景廉
 稲毛三郎重成     千葉四郎胤信

今日、京都御所で、摂政の九条兼実様とお会いになられ、色々とお話をなされておられましたが、夜遅くなってお退きになられました。

2024年6月 7日 (金)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小五日庚申

畠山次郎重忠は、明恵上人に会うために、栂ノ尾へ向かいました。
そしたら畠山重忠が近づいてくると土ぼこりが煙のように立ち上がっているので、明恵上人の弟子達は、京都の町中で火事になっているのかと疑っていると、明恵上人が云うのには、「そうじゃないよ。それなりの名のある豪傑が、今こちらへ向って来ているのだろうと、その気力が感じられる。」と云いました。
しばらくして畠山重忠が来て名乗りを上げました。弟子僧は、今さらながら改めて上人の言葉を尊敬しましたとさ。浄土教について語り合い、往生への本当の道を教わって帰ったそうです。

2024年6月 6日 (木)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小三日戊午

将軍頼朝様と奥様政子様と姫君(数え年18歳)が私的な願いで石清水八幡宮等の霊地を巡礼しましたとさ。

2024年6月 5日 (水)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)四月小一日丙辰

勘解由小路の京極で、結城七郎朝光、三浦平六兵衛尉義村、梶原平三景時が、平家の侍を捕まえました。
この人は、前中務丞平宗資親子です。この十数年行方知れずだったそうです。

2024年6月 4日 (火)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)三月大三十日甲寅

将軍頼朝様は、京都御所へ上がられました。摂政の九条兼実様も来合わせたそうです。
その間に、御所の門前で、本間右馬允義忠が犯罪者を捕まえたんだとさ。

2024年6月 3日 (月)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)三月大二十九日癸丑

将軍頼朝は、尼丹後ニ品局を六波羅の館に招待しました。〔この人は宣陽門院のお母さんです。後白河院の院の庁の妾たちの宿舎取締役です。〕
政子様と姫君(数え年18歳)が対面されまして贈り物をしました。〔銀作りの蒔絵の箱に砂金を三百両納めて、白綾三十反を台にして飾りました。〕
また、お供の公卿や侍達にも同様に土産を出しましたんだとさ。左近将監大友能直と左衛門尉八田知重が役目をしましたとさ。

2024年6月 2日 (日)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)三月大二十七日辛亥

京都御所へお上りになられました。朝廷から派遣された露払いが三人です。また、武装兵八騎が一番後ろにつきました。それは、
 北条小四郎義時   宇佐美三郎助茂
 小山七郎朝光    榛谷四郎重朝
 三浦平六兵衛尉義村 梶原平次左衛門尉景高
 下河辺庄司行平   千葉境平次兵衛尉常秀  

2024年6月 1日 (土)

吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)三月大二十日甲辰

将軍頼朝様は、馬二十頭を京都御所へ贈られましたとさ。

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