吾妻鏡第十五巻 建久六年(1195)三月大十六日丙子
(頼朝様は)夜になって、宣陽門院を訪問なされましたとさ。
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(頼朝様は)夜になって、宣陽門院を訪問なされましたとさ。
将軍頼朝様は京都へ戻られましたとさ。
晴れです。将軍頼朝様は、大仏殿にお参りです。そういえば、陳和卿が宋の国からの来客として日本の工人を指導しました。その毘盧遮那仏の出来上がりを拝むと、仏師の祖の毘首羯摩の生まれ変わりと云えましょう。本当に単なる普通の人ではありません。それなので将軍頼朝様は、重源上人に仲立ちしてもらって、仏縁あるものにめぐり合いたいと陳和卿を招いたのですが、「国の敵として平家を退治した時に、沢山の人を殺しており、その罪業は深く重いのでお会いしたくありません。」と、辞退しました。将軍は、その清潔さに感動の涙を流し、奥州征伐の時に来ていた鎧兜と鞍を乗せた馬三頭や金銀を贈りました。和卿はもらった鎧兜を大仏殿建立の釘代として寺に納めました。鞍ひとつは、手掻会の祭典用の乗り換え馬の鞍として同様に寄付しました。それ以外の立派な馬以下は受け取る訳にはいかないと、全て返してよこしましたとさ。
朝のうちは雨ですが晴れました。しかし昼以後は又雨が激しく降りました。また地震がありました。
今日は、東大寺の落慶式開眼供養の日です。雨を司る神の「雨師」、風の神「風伯」が降りてきて、梵天・帝釈天などの天の神々、地縁の神々などの力により、その縁起の良い効験はあきらかです。寅の一点(1:00~1:24)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万もの軍勢を指揮して、東大寺の四方の街々を警備しています。
日の出があってから将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ参りました。牛車です。小山長沼五郎宗政が刀持ちで、佐々木仲務丞経高が頼朝様の鎧を着け、愛甲三郎季隆が弓箭を担いでいます。左馬頭源隆保様、越後守藤原頼房達、お供の牛車の軒が続きます。前伊賀守田村仲教、源藏人大夫頼兼、宮内大輔藤原重頼、大内相模守惟義、足利上総介義兼、山名伊豆守義範、毛呂豊後守季光達が、後に続きます。
お供の兵は数万騎もいるけど、皆あらかじめ交差点や寺の内や門の外を警備しています。その御家人の中でも、海野小太郎幸氏や藤沢二郎清親をはじめとする弓の達者な者を選んで、総門の左右のわきに座らせておいたそうです。
直にお供する儀仗兵は、たったの二十八騎が分かれて前後に従います。ただし、和田義盛と梶原景時は、侍所の長官と副官なので、警備体制を指図した後で、道中の途中から馬に乗って並びます。それぞれ一番前と一番後ろの儀仗兵を務めたそうです。
前を行く儀仗兵は
和田左衛門尉義盛
畠山次郎重忠 稲毛三郎重成
千葉新介胤正 葛西兵衛尉清重
梶原源太左衛門尉景季 佐々木三郎兵衛尉盛綱
八田左衛門尉知重 岡崎与一太郎
宇佐美三郎助茂 土屋兵衛尉義清
里見太郎義成 加々美二郎長清
北条小四郎義時 小山左衛門尉朝政
後ろに続く儀仗兵
下河辺庄司行平 佐貫大夫四郎広綱
武田五郎信光 浅利冠者長義
小山七郎結城朝光 三浦佐原十郎左衛門尉義連
比企右衛門尉能員 天野民部丞藤内遠景
佐々木左衛門尉定綱 加藤次景廉
氏家五郎公頼 江戸太郎重長
三浦介義澄 千葉相馬次郎師常
梶原平三景時
堂(大仏殿)前のひさしの下にお座りになられたあと、見物の武者僧達が門内へ群れとなって入ろうとした時、警備の兵に対して数々のもめごとがありました。梶原景時がこれを鎮めようとして威圧的に指図をしたので、武者僧達は、とてもこれを怒り出しました。お互いに言い合いを始めたので、今にも喧嘩が起きそうな気配です。それを見て将軍頼朝様は、小山七郎朝光をお呼びになりました。朝光は、座を立ち、将軍様の御前に進んだ時は、手を周り廊下の簀子の縁にかけて立ったまま、騒ぎを鎮めるようにと命令を承りました。
武者僧に向かう時は、その前に膝まづいて、
「前右大将家の使いである。」と云ったので、僧兵はその礼儀正しさに感じて、おのずから騒ぐのをやめました。朝光が、重々しく将軍様の意向を伝えていうのには、「この東大寺は、平相国清盛のために火事にあってしまい、むなしく礎石ばかりを残し、全て灰になってしまいました。僧兵達の一番悲しい出来事でしょう。源氏の大将が運よく大スポンサーとして、建設の初めから完成の今に至るまで、力を注いできました。そればかりか、邪魔者を排除して仏のための完成祝賀会を遂行するために、数百里の道のりを乗り越えて、大きな建造物伽藍に詣でました。これを何故僧兵が喜ばないのでしょうか。残酷な武士でありながらも、なお仏との縁を結ぼうと思って、大事業の基礎にたずさわれたのを喜びました。知恵も学問もある僧侶が、何故騒ぎを好んで、自分達の寺の再興を邪魔するのでしょう。その思惑はとても不穏当なことですよ。理由を承りましょうか。」と言いました。武者僧達は、すぐにその行為を恥ずかしいと思い、後悔しました。
数千人の武者僧が一斉に静かになりました。特に使いの者の勇気と姿の良さ、弁舌のさわやかさに、ただ単に軍隊の武力に長けているばかりでなく、寺社での礼儀すらも承知している。坊さんたちは興味を持って、どこの家の誰なんだろうと、一同は思いました。後々のために名前を聞きたいと思い、名を名乗って欲しいと何度も言いました。朝光は「小山」と言わずに「結城七郎」と名乗って、元へ戻りましたとさ。
次に天皇がおいでになられ、摂関家(九条兼実)以下公卿や殿上人が沢山ついてきました。未の刻(午後二時頃)に、開眼供養の儀式がありました。指導僧は、向福寺長官僧正覚憲。まじない師は、東大寺長官権僧正勝賢。参集したのは仁和寺の法親王守覚を始めとするいろいろな寺の名僧達が合わせて一千人にもなりましたとさ。全くもって、天皇家と武家との大いなる事業です。仏を見て仏法を聞く集まりです。
この寺院は、安徳天皇時代の治承四年庚子十二月二十八日、平相国禅門清盛の悪行のために、仏像は灰となり、建物は燃え残かすの柱ばかりを残しました。そこで後白河法皇は、重源上人に命じられたのが、「大仏建立の願を先人の歩いた道に調べて、偉い人もいやしい人も皆の知識を導き出して、建具工人と大工さんとに仕事をさせて、建物を立ち上げるように勤めさせ、天皇のかわりに日をおかずに仕上げるように。」との賜れて、重源上人はその旨を承知されて、先の寿永二年癸卯四月十九日、宋の国の陳和卿に任せて大仏の頭を鋳させました。同じ年の五月二十五日から三十数日をかけて銅を溶かすこと十四度もくりかえし、型へ流し込む工事をやりとげました。
文治元年(1185)乙巳八月二十八日、後白河法皇自ら筆を執り開眼(目を書き込んだ)しました。その時は、法王が数段もの足場をよじ登って、十六丈(48m座っているので半分)のお像を仰ぎ見たのです。手伝いの公卿たちは、目を回して足が震えて、皆半分の場所で立ち止まってしまいました。開眼供養のお経を歌のように唱える指導僧は、東大寺長官で寺務を統括する僧正定遍。まじない師は、向福寺長官権僧正信円。仏法を解く講師は、向福寺副長官大僧都覚憲。全体で拝んでいた僧侶の数は、一千人でした。
その後、重源上人は昔の例を調べて伊勢神宮にお参りをして東大寺再建のお祈りをした所、風の社の神の力で、たちまち二粒の宝の珠を手に入れたので、東大寺の宝物として、正倉院にあります。同じ文治二年(1186)丙午四月十日に初めて周防国へ入り、良い材木を伐採し、柱の礎石を据えるなど、土木工事の計画を立てました。柱一本を乗せた車に牛百二十頭をつないで、これを曳かせましたとさ。建久元年(1190)庚戌七月二十七日、大仏殿の建物の柱二本を初めて立てました。同年十月十九日に上棟式で、法皇も出席されましたとさ。
東大寺創建の伝承は、聖武天皇の時代の天平十四年(742)壬午十一月三日、この寺を建立したいとの願いによって、立派な大きな建物建設のために、初めて天皇の使者を伊勢神宮へ派遣しました。左大臣の橘諸兄様がそうなのです。同じ十七年乙酉八月二十三日、まず敷地に基壇を突き固め、その後ろに山をこさえました。同じ天平十九年(747)丁亥九月二十九日に大仏様を鋳始めました。孝謙天皇の時代の天平勝宝元年(749)十月二十四日にその工事が終わりました。〔三年間に八回鋳たわけです。〕同じ十二月七日丁亥に、開眼供養の完成式典を実施されました。天皇も太上皇〔聖武天皇〕も寺へ参りました。指導僧は、南インドのバラモン僧正、施主の願意を受けて唱えるのは行基大僧正でした。天平勝宝四年(753)壬辰三月十四日、初めて大仏様に金メッキをしました。〔金は天平二十年に初めて奥州(東北地方)から献上されたものです。これが我が国での砂金の最初なのです〕
将軍頼朝様は、馬千頭を東大寺へ寄付しました。和田義盛、梶原景時、義勝房成尋、一品坊昌寛がこれを担当しました。
それに追加の寄付は、米一万石、黄金千両、上等の絹を千匹(二千反)だそうです。
将軍頼朝様は、東大寺の落慶供養に合わせるために奈良の東南院へお着きになられました。石清水八幡宮から直接向かわれたのです。
友の人達の行列は、
まず先頭が、畠山次郎重忠と和田左衛門尉義盛です。〔横に並んだわけではありません〕
次の軍装の儀仗兵です。〔三騎が横に並び、それぞれの家来や従者が鎧兜をつけて、道端に並んでおります。その人数は家格によっています〕
江戸太郎重長 大井二郎實春 品川太郎
葛西兵衛尉清重 足立太郎 江戸四郎
岡部小二郎忠嗣 小代八郎 山口兵衛次郎
勅使河原小三郎宣直 浅見太郎実高 甘糟野次広忠
熊谷又次郎直家 河勾七郎政頼 平子右馬允有員
阿保五郎 加治小次郎 高麗太郎
阿保六郎 鴨志田十郎 青木丹五真道
豊田兵衛尉義幹 鹿辺六郎 中郡太郎
真壁小六 片穂五郎 常陸四郎(伊佐四郎為家・後に伊逹四郎為家)
下島権守太郎 中村五郎 小宮五郎
奈良五郎高家 三輪寺三郎 浅羽三郎
小林次郎重弘 同三郎 倉賀野三郎高俊
大胡太郎重俊 深栖太郎 那波太郎
渋川五郎 吾妻太郎 那波弥五郎
佐野七郎 小野寺太郎道綱 薗田七郎成朝
皆川四郎 山上太郎高光 高田太郎
小串右馬允 瀬下奥太郎 坂田三郎
小室小太郎 祢津二郎宗直 同小次郎宗道
春日三郎貞幸 中野五郎能成 笠原六郎
小田切太郎 志津田太郎 岩屋太郎
中野四郎 仁田四郎忠常 同六郎忠時
大河戸太郎広行 同大河戸次郎秀行 同大河戸三郎行元
下河邊四郎政義 同藤三 伊佐三郎行政
泉八郎 宇都宮所信房 天野右馬允保高
佐々木三郎兵衛尉盛綱 中沢兵衛尉 橘右馬次郎
大島八郎 海野小太郎幸氏 牧三郎武者所宗親
藤沢二郎清親 望月三郎重隆 多胡宗太
工藤小次郎行光 横溝六郎 土肥七郎
糟谷藤太兵衛尉有季 梶原刑部兵衛尉景定 本間右馬允義忠
臼井六郎常安 印東四郎 天羽次郎直常
千葉相馬次郎師常 同東六郎大夫胤頼 境平次兵衛尉常秀
広沢余三実方 波多野五郎義景 山内刑部丞三郎經俊
梶原刑部烝朝景 土屋兵衛尉義清 土肥先二郎惟平
和田三郎宗実 同小次郎 佐原三浦太郎景連
河内五郎義長 曽根太郎 里見小太郎
武田兵衛尉有義 伊沢五郎信光 新田蔵人義兼
佐竹別当義季 石河大炊助 沢井五郎
関瀬修理亮義盛 村上左衛門尉頼時 高梨次郎
下河辺庄司行平 八田右衛門尉知家 三浦十郎左衛門尉義連
懐島平権守入道大庭景能
〔濃い藍色の武装用常服。鷺のあごひげの様に蓑の茎が垂れ下がっているので、それを胸の前で綴じています。兜の下に押し入れる柔かい烏帽子。弓手(左側)の鐙が少し短いのは、保元の乱で為朝に矢を射られたからです〕
北条小四郎義時 小山結城七郎朝光
将軍頼朝様〔牛車〕
大内相模守惟義 源藏人大夫頼兼 足利上総介義兼 〔横に並んでいます〕
山名伊豆守義範 源村上右馬助経業 〔横に並んでいます〕
因幡前司大江広元 三浦介義澄 〔横に並んでいます〕
豊後前司毛呂季光 山名小太郎重国 那珂中左衛門尉
土肥荒次郎実平 足立左衛門尉遠元 比企右衛門尉能員
藤九郎盛長 宮大夫 所六郎朝光
以上は、狩装束です。
次に軍装の儀仗兵です。〔三騎が横に並び、それぞれの家来や従者については、前を行く儀仗兵と同じです〕
小山左衛門尉朝政 北條五郎時連 平賀三郎朝信
奈古蔵人義行 徳河三郎義秀 毛呂太郎季綱
南部三郎光行 村山七郎頼直 毛利三郎頼隆
浅利冠者長義 小笠原次郎長清 同三郎
後藤新兵衛尉基清 葛西兵衛尉清重 比企藤二
稲毛三郎重成 梶原源太左衛門尉景季 加藤太光員
阿曽沼小次郎親綱 佐貫四郎広綱 足利五郎長氏
小山長沼五郎宗政 三浦平六兵衛尉義村 佐々木左衛門尉太郎定綱
小山田榛谷四郎重朝 野三刑部丞成綱 佐々木仲務丞次郎経高
波多野小次郎忠綱 波多野三郎義定 沼田太郎
河村三郎義秀 原宗三郎景房 原宗四郎行能
長柄四郎明義 岡崎余一太郎 梶原三郎兵衛尉景茂
中山五郎為重 渋谷四郎時国 葛西十郎
岡崎四郎義実 和田五郎義長 加藤次景廉
小山田五郎行重 中山四郎重政 那須太郎光助
野瀬判官代国能 安房判官代野瀬高重 伊達次郎為重
岡部小二郎忠嗣 佐野太郎基綱 吉川小次郎
南条次郎 曽我小太郎祐綱 二宮小太郎光忠
江戸七郎重宗 大井兵三次郎実春 岡部右馬允
横山権守時広 相模小山四郎 猿渡藤三郎
笠原十郎親景 堀藤次親家 大野藤八
伊井介 横地太郎長重 勝田玄番助成長
吉良五郎 淺羽庄司三郎 新野太郎
金子十郎家忠 志村三郎 中禪寺奥次弘長
安西三郎景益 平佐古太郎為重 吉見二郎頼綱
小栗二郎重広 渋谷次郎高重 武藤小次郎資頼
天野藤内遠景 宇佐美三郎助茂 海老名兵衛尉季綱
長尾新五為宗 多々良七郎 馬塲二郎資幹
筑井八郎 臼井与一 戸崎右馬允国延
八田兵衛尉知重 長門江七景遠 中村兵衛尉
宗左衛門尉惟宗孝親 金持二郎 額田太郎
大友左近將監能直 中条右馬允家長 井沢左近將監家景
澁谷弥五郎 佐々木五郎義清 岡村太郎
猪俣平六範綱 庄太郎家長 四方田三郎弘長
仙波太郎信恒 岡部六野太 鴛三郎
古郡二郎 都筑平太経家 苔田太郎
熊谷小次郎直家 志賀七郎 加世次郎
平山右衛門尉季重 藤田小三郎能国 大屋中三安資
諸岡次郎 中条平六 井田次郎
伊東三郎 天野六郎政景 工藤三郎祐光
千葉大須賀四郎胤信 同国分五郎胤道 梶原平次左衛門尉景高
しんがりの儀仗兵
梶原平三景時
千葉新介胤正〔それぞれ一緒に並ばず、家来を数百騎を連れています〕
一番後
前掃部頭中原親能 伊賀前司田村仲教 〔一緒に並んでいます〕
縫殿助首藤重俊 遠江権守 〔一緒に並んでいます〕
源民部大夫光行 伏見民部大夫 右京進中原仲業
隼人佑三善康淸 三善兵衛尉 平民部烝盛時
越後守藤原頼房 〔それぞれに家来やお供を引き連れています〕
以上の人達は、水干を着ています。
夜になって、奈良へ天皇がお出ましです。今日は、旅行に縁起が悪い日なのです。天皇が京都の外へ出るのに、この日にした例はないそうです。
後白河法皇の未亡人七条院殖子様が京都から出発しました。これは、東大寺の落慶供養があるからです。事務官の右馬頭信清様がお供をされたそうです。」
今日、将軍頼朝様は、石清水八幡宮と六条左女牛八幡へお参りです。臨時の祭礼のためです。牛車〔網代車〕に乗っていかれました。若君万寿様(後の頼家)は絵の描かれた網代車を使われ、御台所政子さまは、八葉模様の牛車〔白い着物を後ろから少し出して見せています〕に乗られました。左馬頭源隆保様、越後守藤原頼房は、衣の裾を後ろの御簾から出す出車に乗ってます。〔近衛府の警護二人を従えてます〕露払いはいません。源藏人大夫頼兼、足利上総介義兼、毛呂豊後守季光が、すぐ後ろに馬上姿です。幣帛と奉納の馬〔鴇毛二頭〕が前を行きます。石清水八幡宮の神前で、夜明かしをなされましたとさ。道中の護衛兵は十二騎です。
前の武装儀仗兵六騎
畠山次郎重忠 稲毛三郎重成
千葉新介胤正 葛西兵衛尉清重
小山左衛門尉朝政 北条五郎時連
後の武装儀仗兵六騎
下河辺庄司行平 佐々木左衛門尉定綱
結城七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季
三浦介義澄 和田左衛門尉義盛
左馬頭源隆保様が、六波羅のお屋敷に参りました。将軍頼朝様はお会いになり、贈り物を差し上げましたとさ。
その他の公卿などもとても沢山やってきましたとさ。
大内相模守惟義は、将軍頼朝様の幣束を捧げる代理として、六条左女牛八幡へお参りをし、馬〔黒〕を一頭奉納しましたとさ。
晴れです。将軍頼朝様は、近江国の鏡宿(滋賀県蒲生郡竜王町鏡に鏡神社)を出発し、馬の手綱を進めておられました。
そしたら、比叡山の武者僧達が、瀬田橋あたりまで山を下りてきているのを発見されました。いかにも橋を渡った向こう側にたむろしている状態です。将軍頼朝様は馬を橋の手前東側で馬を止めて、挨拶をすべきかどうか悩まれました。少しして、小鹿島橘次公成をお呼びになり、僧兵達のところへ行って、事情を伝えさせました。
橘次公成は僧兵達の前にひざまずいて、話をしました。
鎌倉の将軍様が、東大寺の落慶式に仏との縁を結ぶため京都へ上るのですが、みなさんが群集しているのは、どういうことなのでしょう。危険を感じて不安に感じられております。しかし、武士の作法としては、このようなところでわざわざ馬を下りて礼を尽くす事はありません。そこで馬に乗ったまま通ります。もしあえてこれをとがめだてをしないよう。」と云ったらば、返事を聞く前に、お通りになられました。
僧兵の前へ来た時に、弓を構え直して多少厳しい顔をしました。そしたら僧兵は皆身を低くして頭を下げましたとさ。
橘次公成は、子供の頃から京都へ出入りをし、何事も昔の作法などに通じているので、この役目を引き受けたならば、実に言葉が上手でオウムのくちばしが立派なことを言ったので耳がびっくりしている。また、その態度はきちんとしていて、まるで竜虎の勢い目を見張る思いです。僧兵達も感心し、誰もが褒め称えましたとさ。
灯りを灯す時間になって六波羅のお屋敷に入られました。それを見物する公卿たちの牛車は、方向転換ができない程の混みようでしたとさ。
巳の刻(午前十時ころ)に頼朝様が京都へ向けて出発です。奥様の政子さまと男女のお子様方も一緒にご出発です。
東大寺の落慶供養竣工式への出席して仏様と縁を結ぶためなのです。
畠山次郎重忠が先頭の武装儀仗兵を務めるそうです。
鶴岳八幡宮の臨時の祭です。流鏑馬、競馬、相撲などを奉納しました。将軍頼朝様は、幣束を捧げられましたとさ。
今朝の夜明けに比企四郎右衛門尉能員、千葉平次境兵衛尉常秀が、派遣員として急に京都へ旅経ちました。
これは、前備前守源十郎行家や大夫判官源義顕(義経)の残党が東海道あたりにいるらしい。今度の頼朝様が京都へ上られる道中で、仇を討とうと望んでいると巷で噂が出てきているので、旅の障害になるので、先に宿場ごとに詳しい事情を聴き歩き、もしその事が本当ならば、計略を立てて捕まえるようにと、将軍頼朝様の命令があったそうです。
二人ともお供の人数に加えられているけれども、武勇を優先してこの役を実施するのだそうです。
鶴岡八幡宮へのお神楽の奉納です。将軍頼朝様のお参りです。梶原源太左衛門尉景季が刀持ちを務めてます。幣帛を奉納する幣殿に座られました。
お供の兵隊たちは、回廊の外側におります。神前で法華経を読経しました。弁法橋定豪が指導僧をしましたそうな。
京都へ上られる道中のお供について、「畠山次郎重忠を先頭とする。和田左衛門尉義盛は前を行く武装した儀杖兵の編成を担当しなさい。梶原平三景時は、後ろを行く武装した儀杖兵の編成を担当しなさい。行列の仕方などは、以前に京都へ上られた時の例を変えないように。」と、仰せになられましたとさ。
大庭平太景能入道が、上申書を提出しました。
これは、頼朝様が兵をあげた最初から大きな手柄を立ててきましたが、ある罪を疑われて鎌倉から追い出された後は、悲しみと鬱憤とに明け暮れながら、既に足かけ三年もたっております。今となっては後どのくらい生きられるものか分かりません。早くお許しをいただき、今度の京都へ上られるお供の内に加えていただき、老後の名誉にしたいのだと、書かれていました。そこで、すぐに許され、そればかりかお供をするように仰せになられましたとさ。
説明大庭平太景義入道は、岡崎四郎義實と供に建久4年(1193)8月24日に、曾我兄弟の仇討ち事件で出家謹慎をさせられている。
雑用の長の足立新三郎清経が、使者として京都へ上ります。
その用事は、近いうちに京都へ上られるので、東海道の宿駅などの用務や、川にかける舟筏の橋の用意など、先にこれ等を知らせるためなのです。
内藤左近将監盛家が、新しい領地を貰いました。それに名誉な褒め言葉をいただきましたとさ。
去年、使者として京都へ上っていた雑用の鶴二郎と吉野三郎が帰ってきました。
相模と武蔵の二か国の年貢物を先月十二日に朝廷へ届け、その受取証を持って御所へ参りましたとさ。
京都へ上られるので、お供の人達など旅の途上の事柄を箇条書きにして、お決めになられましたとさ。
(頼朝様は)三浦よりお帰りになられたそうです。
将軍頼朝様は、三浦三崎の港へ行かれました。船の中では、宴会などがありましたとさ。
三浦介義澄等三浦一族が、弁当を用意したとのことです。
北条時政殿が、伊豆国へ下られました。その目的は、願成就院の供養の儀式など仏教行事を数々をお決めになられたので、それを実施するためです。
先月二十六日の永福寺薬師堂開眼供養に呼ばれた東大寺別当の前権僧正勝賢が京都へ帰ります。
旅の宿泊先や替え馬や荷運び人足などについて、三浦介義澄と平民部烝盛時が担当して手配をしましたとさ。
法橋一品坊昌寛が、派遣員として京都へ上りました。
その用事は、将軍頼朝様が東大寺の竣工式に出席し仏との縁を結ぶために、京都へ上る予定なので、宿泊先の六波羅の屋敷を修理するためなのです。
将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。結城七郎朝光が太刀持ちで、海野小太郎幸氏が弓箭を背負い、小倉野三が頼朝様の鎧を着けましたとさ。足利前上総介義兼以下がお供をしたそうです。
お戻りになられた後、御所の中で般若心経を唱える会を行いました。鶴岡八幡宮寺の坊さん達が来て勤めました。お布施に馬を引出物にしたそうです。
豊後守毛呂季光と中条右馬允家長とが喧嘩を起こしました。今にも合戦をしようとしたので、それぞれの関係者が走って集まってきました。
それなので、侍所長官の和田左衛門尉義盛を派遣して、仲直りをさせました。
中条家長は、八田前右衛門尉知家に命じて、幕府への出仕を止められました。それは、八田知家の養子だからです。
毛呂季光に対しては、御所に呼び入れて、「源氏の一族でありながら、御家人に対して戦争をして命を失うかもしれない行為をしようとは、とても温厚な者の行いではない。」と直接批判の言葉を与えられましたとさ。
この騒ぎがあったので、今日の般若心経を唱える法事は延期しましたとさ。思いもかけずに魔性と関わってしまったので、恒例にしている法事を後回しにしました。と云うことは、この両人の不和の出来事は、二つの神のおぼしめしに反することになるのでしょう。この原因は、毛呂季光は訳があって、源氏一族に準じて扱わられているので、相当得意に思っているのです。中条家長は、立派な大人なのにもかかわらず、八田知家の養子となっています。これも知家の権力を借りて、無礼な態度なので、毛呂季光が注意をしたからです。
将軍頼朝様は、新年初外出として藤九郎盛長の甘縄の家へ入られました。三浦介義澄をはじめとするご家人がお供をしましたとさ。
小山左衛門尉朝政が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。
千葉介常胤が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。
足利前上総介義兼が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。大内相模守惟義が、剣を持って来ました。同様に弓箭をはじめ行縢・砂金・鷲の羽・馬などを進呈しました。
その儀式が済んでから、なおも西の侍所の襖で仕切った上段の間へお出になられ、宴会をして私人として仲間と饗宴しましたとさ。
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