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2024年4月

2024年4月30日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大二十六日壬午

永福寺内の新築の薬師堂の完成式典(開眼供養)です。指導僧は、前権僧正勝賢だそうです。将軍頼朝様のお出ましです。北条五郎時連が刀持ちです。愛甲三郎季隆が弓箭を肩にかけています。
お供の人たち〔礼装の狩衣〕は、

  源蔵人大夫頼兼   武蔵守大内義信
  信濃守浅利遠義   相模守大内惟義
   上総介足利義兼    下総守源邦業
   宮内大輔藤原重頼   駿河守藤原宗朝
  右馬助村上経業   修理亮関瀬義盛

  前掃部頭中原親能  前因幡守大江広元
  民部大夫藤原繁政  小山左衛門尉朝政
  下河辺庄司行平   千葉介常胤
  三浦介義澄     三浦平六兵衛尉義村
  八田右衛門尉知家  足立左衛門尉遠元

  和田左衛門尉義盛  梶原刑部丞朝景
  佐々木左衛門尉定綱 佐々木仲務丞経高
  東大夫胤頼     境兵衛尉常秀
  小野三刑部丞成綱  後藤兵衛尉基淸
  右京進中原季時   大江兵衛尉能範

 一番後ろに梶原平三景時

 軍装備の兵八騎
  北条小四郎義時   小山七郎結城朝光
  武田兵衛尉有義   加々美次郎長清
  三浦左衛門尉義連  梶原源太左衛門尉景季
  千葉新介胤正    葛西兵衛尉清重

 布施を手渡す人
  右兵衛督一条高能  左馬権助三条公佐
  上野介憲信     皇后宮大夫進伊佐為宗
  前對馬守宗親光   豊後守毛呂季光
  橘右馬権助次広   工匠藏人
  安房判官代源高重

 指導僧へのお布施
  錦のかぶり物三枚 綾織のかぶり物七十枚 綾織の絹百反 長絹百疋 染た絹三百反 白い布千反
 おまけのお布施
  黄金作りの釼 一腰   香呂筥〔綾織の紫染めの絹を使ってこれを作る〕
 この外 馬二十頭 お供えの米三百石
 お供の僧へのお布施〔人毎に〕
  色々な色のかぶり物三十枚 絹三十疋 染めた絹三十反 白い布二百反 紺色の布百反 馬二頭 お供えの米百石

2024年4月29日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大二十二日戊寅

囚人として預けられたいた妻良藤二が許されました。これは永福寺薬師堂開眼供養の恩赦としてなのです。この男は、伊豆の船頭で、去年頼朝様雑用の時沢を打ち叩いたからだそうです。

2024年4月28日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大二十日丙子

源藏人大夫頼兼と宮内大輔藤原重頼が、京都から到着しましたとさ。

2024年4月27日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大十九日乙亥

東大寺長官の前権僧正〔勝賢〕が到着しました。八田右衛門尉知家の家へお招きになられましたとさ。

2024年4月26日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大十七日癸酉

来春、京都へ上るつもりなので、お供の関東の御家人を動員するために、掃部頭中原親能が総まとめの役です。主計允藤原行政がその言葉を書き出しました。その文章の内容は、

 ある国の人たちよ、京都へ上るようにと、仰せが出ました。もし、京都へ上ることが困難ならば、鎌倉へきて事情を説明しなさい。なぜなら留守番のため、京都へ上らない人にも、仕事があるからです。遅れた場合は、さぞかしお怒りを買うことになるでしょう。

2024年4月25日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大十五日辛未

永福寺薬師堂開眼供養の指導僧は、近いうちに到着するとさきがけの使いが知らせてきたので、そのお迎えをするために御家人を派遣するように。また、伝令の馬なども割り当てました。三浦介義澄が五頭、和田左衛門尉義盛は四頭、梶原平三景時が二頭、中村庄司宗平が五頭、小早河弥太郎遠平が五頭、渋谷庄司重国が五頭、曾我太郎助信が二頭、原宗三郎宗房が一頭だそうです。これ以外は、宿場の負担とさせましたとさ。

2024年4月24日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大十三日己巳

右京進中原季時が、京都から鎌倉へ到着しました。
永福寺薬師堂開眼供養の指導僧はすでに鎌倉へ向けて出発したそうです。

2024年4月23日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大十日丙寅

越前国(石川県)志比庄(永平寺町)は、比企藤内朝宗のために横取りされたと、荘園上級権利者の領家最勝光院から訴えがありました。
この要因としては、去る文治元年(1185)に、反逆者義経の仲間を探し捕まえるために、軍隊を諸国に派遣した時、兵糧米を催促する荘園に入らせましたが、散らばっていた御家人たちが、どさくさに紛れて、略奪をして庶民が困っていると何度も後白河法皇から苦情の手紙をもらったので、三十七か国の荘園については武士が邪魔をしてはいけないと、法王に申しあげて随分と時が経っております。
今になって、この訴えがあるなんて、とても驚かれて、比企藤内朝宗に聞きただしたところ、横取りはしていませんと弁解しました。
その旨を起請文に書かせて、荘園領主に送らせましたとさ。

2024年4月22日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大六日壬戌

相模・武蔵両国の年貢を雑用に預けて京都へ送られました。

2024年4月21日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大二日戊午

幕府がその安泰を願って祀る寺社の担当者を決め置かれておられます。しかし、今日更にそのことについて命令があり、人数を追加することになりました。

 鶴岡八幡宮〔上下共に〕
  大庭平太景義    藤九郎盛長     右京進中原季時     図書允清原清定
 勝長寿院
  因幡前司(大江)広元 梶原平三景時    前右京進中原仲業    豊前介源実景
 永福寺
  三浦介義澄     畠山次郎重忠    義勝房成尋
 同阿弥陀堂
  前掃部頭中原親能  民部丞藤原行政   武藤大蔵丞頼平
 同薬師堂〔今新しく造る〕
  豊後守源季光    隼人祐三善康清   平民部丞盛時

2024年4月20日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十二月大一日丁巳

将軍頼朝様は、藤九郎盛長の甘縄の家へ行かれました。
彼が担当している上野国の寺社については、彼が全て支配(得分)するように、この場においてこの命令を受けました。

2024年4月19日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二十七日乙卯

鎌倉に近い国の一の宮と国分寺の壊れたところを修理するように、命じられました。

2024年4月18日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二十六日甲寅

武蔵と相模の両国の年貢を京都へ送られました。
主計允藤原行政(二階堂)、右京進中原仲業、源実景が担当しました。幕府の使いの雑用は時沢と成里だそうです。

2024年4月17日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二十三日辛亥

北条時政殿と江間殿(北条義時)が三島から鎌倉へ戻りました。願成就院の修理工事を終えられたんだとさ。

2024年4月16日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二十一日戊申

三島大社の催事です。特に身を清めて、鶴岡八幡宮境内の三島神社の末社へお参りなさいました。
また、御霊神社の前の浜辺で、千回の小笠懸がありました。和田左衛門尉義盛が指揮担当しました。
 射手は、
  武田太郎信義  対 同五郎信光
  小山五郎宗政  対 同七郎朝光
  境兵衛尉常秀  対 三浦兵衛尉義村
  工藤小次郎行光 対 榛谷四郎重朝
  小鹿嶋橘次公業 対 渋谷次郎高重
  足利太郎親成  対 梶原兵衛尉景高
  土屋兵衛尉義清 対 所雑色基繁
  藤沢次郎清近  対 愛甲三郎季隆
  佐々木三郎盛綱 対 同五郎義清
  曾我太郎祐信  対 広沢三郎重義

2024年4月14日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二十日丁未

永福寺内の薬師堂の開眼供養に指導僧を始めとする坊さん達へのお布施の品物が京都から到着しました。
前掃部頭中原親能が担当指揮して調達した物です。

2024年4月13日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十九日丙午

多気太郎義幹が嘆き訴える文章を提出しました。
他人から有りもしない悪口をでっち上げられ、領地を取上げられてしまったと、狩野介宗茂がこれを取次ぎました。

2024年4月12日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十八日乙巳

江間殿(北条義時)が、神に幣帛(へいはく)をささげる代理として、伊豆国三島大社へ参られます。今朝出発されたそうです。

説明幣帛は、榊(さかき)の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。

2024年4月11日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十五日壬寅

将軍頼朝様と御台所政子様は、鶴岡八幡宮へお参りをなさいましたとさ。

説明旧暦の11月15日は二十八宿で「何事をするにも吉」とされる鬼の出歩かない日「鬼宿日」に当たる。

2024年4月10日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十四日辛丑

上総介足利義兼は、因幡前司(大江)広元を通して「昨日披露供養した両界曼荼羅は、将軍様のことを祈ったものです。」と云うので「それなら八幡宮寺へ奉納するように。」と八幡宮寺筆頭の法眼円暁に仰せになられました。直ぐに上の宮の東の廊下に飾られましたとさ。

2024年4月 9日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十三日庚子

上総介足利義兼は、鶴岡八幡宮で真言密教の金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅の対を披露供養しました。
指導僧は八幡宮寺筆頭の法眼円暁です。お経を一緒に唱えるお供の僧は六十名。
主催者は礼装の狩衣を着て回廊におります。伊豆守山名義範を始めとする源氏一族二・三名が同様に並んで座っております。
安房判官代源高重と三位判官代藤原教重が、布施を渡しましたとさ。

2024年4月 8日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小十日丁酉

姫君が(数え年17歳)又具合が悪くなりましたので、人々が群れをなして集まって来て、幕府内は物騒がしくなりました。この病気を治して貰う様に三島神社に馬を寄付しました。新田六郎忠時が使いとして旅立ちましたとさ。
これを聞いて、江間殿(北条義時)は伊豆国から走って帰って来ました。願成就院の修理の為に伊豆へ行っていたのだそうです。

2024年4月 7日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小八日乙未

京都と鎌倉の早馬伝令の上下向用の馬と、京都朝廷への年貢など物資の輸送用人夫を、東海道の宿駅ごとに指定し配分しました。大きな宿場には八人、小さな宿場には二人だそうです。
この話は、普段から置かれてはありますが、新しく宿場を増やしたので、追加してこのように処置しましたとさ。

2024年4月 6日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小七日甲午

永福寺内に新しく立てたお堂に扉を立てました。それなので将軍頼朝様も立ち会われました。
大工達には特別に褒美が与えられましたとさ。

2024年4月 5日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小四日辛卯

鶴岡八幡宮のお神楽の奉納です。将軍頼朝様もお参りです。右近将監大江久家が、秘伝の歌を歌いました。
畠山次郎重忠と梶原源太左衛門尉景季が、下の句を付けて歌いましたとさ。

2024年4月 4日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小二日己丑

武蔵国(埼玉県)の太田庄の堤防を固める事について、来年の三月までに工事を終えるようにと、仰せになられましたとさ。

2024年4月 3日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十一月小一日戊子

北条時政殿は、三島大社の祭典を主催するために伊豆国へ行かれました。息子の五郎時連を一緒に連れて行かれましたとさ。

2024年4月 2日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大二十九日丙戌

東六郎大夫胤頼の息子達が、荘園領主の本所や上皇の警固の侍の瀧口に勤める時は、今後は許可を取らずに、自分らの判断に任せるからと、仰せになられましたとさ。

参考①本所は、最上級荘園領主の事で、順に本所→領家→預所→下司→公文→名主→作人→小作人→在家と続き、実際の耕作は在家がやり、後は全員が中間搾取者。ひどいときは、それぞれの役に代官がついたりもする。

2024年4月 1日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大二十六日癸未

京都への税金としての馬八頭と砂金、紫染めの絹、模様染めの絹、真綿などを、使いの雑用が運んで京都へ向かいました。夕べ出発したのです。

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