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2024年3月

2024年3月31日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大二十五日壬午

勝長寿院で、教義どおりにお経を十種類あげる法要を行いました。
これは、左典厩義朝様と一緒にお亡くなりになった鎌田兵衛尉正清の娘が主催したものです。
一つは、左典厩義朝様の菩提を弔うためと、一つは亡き父の冥福を祈るために、千日間この寺の坊さんが仏様の前にかがみこんで、教義どおりの法華経などを音読することをさせましたとさ。
法会を営むときの施主の願意を記す文は、信救得業が下書きをして、大江広元が清書をしたんだそうです。
将軍頼朝様も御台所政子様も、
仏との縁を結び、その加護に預かるために参加しました。
指導僧は大学法眼行恵です。お経の偉大なる効果も、施主の行き届いた志も、話している内容は、まるでお釈迦様の弟子で弁舌巧みな
富樓那の弁舌に殆ど近づいていました。聞いている人は皆、そのありがたさに目の涙をおさえ、涙で両袖を濡らすほどだったそうです。
前上野介憲信、工匠蔵人、安房判官代高重達が布施を渡しました。
この女性の父の
鎌田兵衛尉正清は、故左典厩義朝様の良き家来でした。とうとう同じ場所で一緒に亡くなったのです。
それで、将軍頼朝様は、特に哀れみを持って、その子供を捜しましたが男子は有りませんでした。そこへこの女性がやってきたので、尾張国(愛知県)志濃畿(春日井市篠木町)と丹波国(京都府)田名部(舞鶴市田辺町)の地頭職を、恩として任命しましたとさ。

2024年3月30日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大二十二日己卯

葛西兵衛尉清重が、白いオオタカ一羽を献上しました。較べるものの無いほど立派な鷹です。すぐに結城七郎朝光にお預けになられましたとさ。

2024年3月29日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大十八日乙亥

上総介足利義兼は、代理として、日向藥師へお参りだそうです。頼朝様の歯痛治療のためだそうです。

参考日向藥師堂は、神奈川県伊勢原市日向1644に、かつて真言宗の日向山霊山寺と云う、13もの子院を持つ大寺院だったが、廃仏毀釈で多くの堂宇が失われ、別当坊の宝城坊と薬師堂がのこった。宝蔵には行基作の伝説を持つ薬師如来(鉈彫り・平安中期?)始め丈六の阿弥陀像や薬師如来像、十二神将像などが収蔵されている。

2024年3月28日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大十七日戊戌

歯痛の治療について、京都朝廷の医療機関典薬寮(くすりのつかさ)の長官の典薬督(くすりのかみ)の丹波頼基が、書き出しました。その上効き目のある薬を献上してきました。藤九郎盛長がこれを取次ぎました。
かの丹波頼基さんは、三河国灰野庄を関東から領地として貰って支配しているからです。

2024年3月27日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大十三日庚午

永福寺境内に新築するお堂について、今年中に竣工させるので、竣工式の開眼供養指導僧として東大寺代表の僧正に来てもらうようお願いすることにしましたとさ。それなので右京進中原季時をその使いとして京都へ上らせましたとさ。

2024年3月26日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大九日丙寅

将軍頼朝様は、小山左衛門尉朝政の家へ入られました。朝政の兄弟を始めとする一族が集り、何人かがご機嫌を伺いました。この場所に、馬上弓の名人達を呼び集めて、昔からの伝え書きを見られました。先例や古い言い伝えを調べて、流鏑馬を始めとする的類の射方を語り合いました。その先例は、それぞれに伝えられている家の説は、それぞれ皆違っていて一つとして同じではありません。そこで、右京進中原仲業にそれぞれの意見を記録させました。これは、来年京都へ上るついでに、住吉大社へお参りをするので、願い事をかなえるために、名人達に流鏑馬を射らせるのです。関西の連中が見物をしていたならば、さぞかしこれを見て、さすがに東国こそ弓の本場だと言うのじゃないだろうか。それなので、後日恥をかかないように、良く見比べて選出し、その見事な腕前を若い連中の勉強とするように、この催しをすることになりましたとさ。
 その人々は
  下河辺庄司行平 対 小山左衛門尉朝政
  武田兵衛尉有義 対 結城七郎朝光
  小笠原次郎長清 対 和田左衛門尉義盛
  榛谷四郎重朝  対 工藤小次郎行光
  諏方大夫盛澄  対 海野小太郎幸氏
  氏家五郎公頼  対 小鹿嶋橘次公業
  曾我太郎祐信  対 藤沢次郎清近
  望月三郎重澄  対 愛甲三郎季隆
  宇佐美右衛門尉祐成 対 那須太郎光助

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大九日丙寅

将軍頼朝様は、小山左衛門尉朝政の家へ入られました。朝政の兄弟を始めとする一族が集り、何人かがご機嫌を伺いました。この場所に、馬上弓の名人達を呼び集めて、昔からの伝え書きを見られました。先例や古い言い伝えを調べて、流鏑馬を始めとする的類の射方を語り合いました。その先例は、それぞれに伝えられている家の説は、それぞれ皆違っていて一つとして同じではありません。そこで、右京進中原仲業にそれぞれの意見を記録させました。これは、来年京都へ上るついでに、住吉大社へお参りをするので、願い事をかなえるために、名人達に流鏑馬を射らせるのです。関西の連中が見物をしていたならば、さぞかしこれを見て、さすがに東国こそ弓の本場だと言うのじゃないだろうか。それなので、後日恥をかかないように、良く見比べて選出し、その見事な腕前を若い連中の勉強とするように、この催しをすることになりましたとさ。
 その人々は
  下河辺庄司行平 対 小山左衛門尉朝政
  武田兵衛尉有義 対 結城七郎朝光
  小笠原次郎長清 対 和田左衛門尉義盛
  榛谷四郎重朝  対 工藤小次郎行光
  諏方大夫盛澄  対 海野小太郎幸氏
  氏家五郎公頼  対 小鹿嶋橘次公業
  曾我太郎祐信  対 藤沢次郎清近
  望月三郎重澄  対 愛甲三郎季隆
  宇佐美右衛門尉祐成 対 那須太郎光助

2024年3月25日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大一日戊子

夫属入道三善善信の末子大舎人允三善行倫は、訴訟の裁判の記録係をするように、仰せになられました。
普段は、父の大夫属入道三善善信は責任者ですが、色々と用事が重なるので、行倫を推薦しましたとさ。

2024年3月24日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十九日丙辰

三浦の矢部郷(横須賀市大矢部)に一つのお堂(後の滿昌寺)を建てるように思い立ちました。
治承四年(1180)に亡くなった三浦介義明の菩提を弔うためです。今日、右京進仲業に命じてその場所を調べさせましたとさ。

説明満昌寺は、横須賀市大矢部1丁目5の義明山が、その寺といわれる。この時、頼朝は三浦介義明を今まで生きていたものと看做すとその手柄を褒めたので、三浦ではお祝いに「鶴は千年、亀は万年、三浦の大介百三つ」という。なお、満昌寺には、頼朝お手上のつつじがあり、その下をくぐると頭痛が治ると云われ、いつの間にか頭がよくなるとなってしまった。

2024年3月23日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十八日乙卯

伊勢神宮と熱田神宮に、馬や剣を奉納しました。
(大江)広元さんが指揮担当して、それぞれに代参の使いを行かせましたとさ。

2024年3月22日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十六日癸丑

(頼朝様の)歯痛について、治療法を京都の医者に聞くために、特別に伝令を行かせましたとさ。

2024年3月21日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十五日壬子

岡冠者頼基の大和国の領地は、間違いなく本領安堵すると、再度命じられましたとさ。

2024年3月20日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十三日庚戌

但馬国多々良岐庄(兵庫県朝来市多々良木)は、源宰相兼忠様の荘園です。
ところが、熊野の鳥居禅尼〔故左典厩義朝の姉さん〕が、近頃特別にその荘園を欲しがっていることについて、他人ではない伯母さんなので、地頭職に付かせる命令書を発行してあげました。
但し、用途が制限されている上級管理者の領家への年貢や、勤労奉仕を怠けてはいけませんと、今日、手紙を発送させましたとさ。

2024年3月19日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二十二日己酉

(頼朝様の)歯痛が再発しましたとさ。

2024年3月18日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大十一日戊戌

永福寺内に新しく立てた薬師堂の宿直の人について、今日、班を決められましたとさ。
結城七郎朝光と畠山次郎重忠、和田左衛門尉義盛がその人数に入っているそうです。

2024年3月17日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大六日癸巳

将軍頼朝様が三浦三崎の別荘へ行かれました。八幡宮の稚児達を呼ばれて、舞を舞わせましたとさ。
その後、小笠懸の勝負を競われましたとさ。

2024年3月16日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大三日庚寅

御所の中で、毘沙門天のお経の講釈を始められましたとさ。

2024年3月15日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)九月大二日己丑

東大寺大仏殿竣工式のお布施の調達品を京都へ送らせました。
右京進仲業と主計允藤原行政が担当として、送付文を派遣員の雑用時沢と清常に持たせましたとさ。

2024年3月14日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大二十八日乙酉

平六左衛門尉北条時定の遺産の領地を、子供達が領地として管理するように命じられました。
但し、最上級荘園権利者の本所分地頭職が少々あるので、その領地は本所(預所)へ返すようにとのことだそうです。

2024年3月13日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大二十二日己卯

将軍頼朝様は、甘縄神明社へお参りをして、帰りに藤九郎盛長の家へ立ち寄りましたとさ。

2024年3月12日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大二十一日戊寅

頼朝様が権限を任されている関東御分国内のお寺の燈明料以下については、ちゃんと年貢の納付を勤め、怠ることのないようにと、お寺のある場所の地頭達に命令を出されましたとさ。

2024年3月11日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大十六日癸酉

前中納言一条能保様の使いが京都からやってきました。
先日の二日に病気のため出家をしたと伝えましたとさ。今年四十八歳だそうです。
取次ぎ役で蔵人の三兵衛尉兼経と身の回りの世話役の荒四郎も主人に従って一緒に出家したとのことです。

2024年3月10日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大十五日壬申

将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。自分自らお供えを捧げる役を勤めましたとさ。

2024年3月 9日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大十二日己巳

但馬国多々良木庄(兵庫県)に、初めて地頭職を置くことにして、熊野の鳥居禅尼(義朝の姉)に与えるようにとの事だそうです。本人の希望だからです。

2024年3月 8日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大十日丁卯

相模守大内惟義が、美濃国の中の没収された領地を与えられましたとさ。

2024年3月 7日 (木)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大八日乙丑

御台所政子様が始めた彼岸の法要が七日で満願となりました。
その他に、今日は故清水冠者義高の菩提を弔うため、追加の法事の仏様のお経がありました。
 指導僧は、法橋定豪。
 お供は法眼行恵。
 祈祷をする人、阿闍梨恵眼密蔵。
仏様とお経を上げたあと、故人の昔を語ったので、聞いている人々は皆ありがたいお言葉に喜び、又思い出に嗚咽し涙を流しましたとさ。
  お布施は、
 指導僧に
  被り物三着、袋物二つ、下賜の着物一枚〔お布施の米三石を足しました〕
 お供の坊さんに
  被り物一着、袋物一つ、お米一石。
皇后宮大進伊佐為宗、修理亮関瀬義盛、安房判官代高重、大和判官代藤原邦道、新田藏人義兼などが、これを運びました。図書允清原清定が準備担当しました。

2024年3月 6日 (水)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大七日甲子

先日処刑された遠江守安田三郎義定の屋敷跡地を、江間(北条義時)が戴きましたとさ。

2024年3月 5日 (火)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大三日庚申

将軍頼朝様も右武衛一条高能様も、三浦から鎌倉へ帰りました。

2024年3月 4日 (月)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大二日己未

御台所政子様は、鎌倉へ帰られました。今日は、彼岸の入りの日なので法要を営むためなのです。
御持佛堂においてこの式を行いました。仏様〔釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩、観音菩薩、文殊菩薩、不動明王〕とお経〔法華経〕の供養に、そのお経を読み上げました。この日の指導僧は法橋定豪です。

一方三浦では、又小笠懸が有り、昨日のメンバーと同じだそうな。その後、船を浮かべて船内で宴会です。遊び女達が小船を漕いでやってきました。滑稽な演芸の猿楽を商売にしている小法師中太丸が来て、芸を披露しました。上下の人々は皆大笑いでしたとさ。

2024年3月 3日 (日)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)閏八月大一日戊午

快晴です。将軍頼朝様が三浦にお出かけになられました。右武衛の一条高能様を一緒につれて行かれました。
これは三崎の津において、山荘を建てるためです。足利義兼や北条時政以下のお供が巷に溢れていました。まず小笠懸がありました。
射手は(上が勝ち)
 下河辺庄司行平  小山七郎朝光
 和田左衛門尉義盛 八田左衛門尉知重
 海野小太郎幸氏  藤沢次郎清近
 梶原左衛門尉景季 愛甲三郎季隆
 榛谷四郎重朝   橘次公業
 里見冠者義成   加々美次郎長清

夕暮れの明かりを灯す頃になって政子と若君と姫君(数え年17歳)等も小山五郎宗政、三浦兵衛尉義村、佐々木中務丞経高、梶原三郎兵衛尉景義、工藤小二郎行光、小野寺太郎道綱、右京進中原季時、兵衛尉大江能範がお供をしてやって来ました。三浦義澄が主催しておいしい酒が宴会を元気付け、珍味などのお膳が景気を添えました。ここの眺望の良さは白波が敷かれ、青山に寄りかかる。この景色のよさが、遊山の趣を引き立てます。

2024年3月 2日 (土)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)八月小二十七日乙卯

金粉をにかわで溶いた金泥で書かれた法華経五部を京都で調達して送ってきました。
これは、勝長寿院、永福寺、御所北山の御持仏堂へ供え祀るためです。

2024年3月 1日 (金)

吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)八月小二十六日甲寅

病気(歯痛)の具合が良くなったので、右武衛一条高能を連れて、勝長寿院や永福寺に参りました。
その後、逗子の田越川のあたりへ散策しました。

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