吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)十月大二十五日壬午
勝長寿院で、教義どおりにお経を十種類あげる法要を行いました。
これは、左典厩義朝様と一緒にお亡くなりになった鎌田兵衛尉正清の娘が主催したものです。
一つは、左典厩義朝様の菩提を弔うためと、一つは亡き父の冥福を祈るために、千日間この寺の坊さんが仏様の前にかがみこんで、教義どおりの法華経などを音読することをさせましたとさ。
法会を営むときの施主の願意を記す文は、信救得業が下書きをして、大江広元が清書をしたんだそうです。
将軍頼朝様も御台所政子様も、仏との縁を結び、その加護に預かるために参加しました。
指導僧は大学法眼行恵です。お経の偉大なる効果も、施主の行き届いた志も、話している内容は、まるでお釈迦様の弟子で弁舌巧みな富樓那の弁舌に殆ど近づいていました。聞いている人は皆、そのありがたさに目の涙をおさえ、涙で両袖を濡らすほどだったそうです。
前上野介憲信、工匠蔵人、安房判官代高重達が布施を渡しました。
この女性の父の鎌田兵衛尉正清は、故左典厩義朝様の良き家来でした。とうとう同じ場所で一緒に亡くなったのです。
それで、将軍頼朝様は、特に哀れみを持って、その子供を捜しましたが男子は有りませんでした。そこへこの女性がやってきたので、尾張国(愛知県)志濃畿(春日井市篠木町)と丹波国(京都府)田名部(舞鶴市田辺町)の地頭職を、恩として任命しましたとさ。
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