吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)八月小二十二日庚戌
将軍頼朝様の具合が悪いのです。歯痛なんだそうな。
そこで雑用が京都へ上って、何か良い薬を見つけてくるようにとのことです。
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将軍頼朝様の具合が悪いのです。歯痛なんだそうな。
そこで雑用が京都へ上って、何か良い薬を見つけてくるようにとのことです。
和田左衛門尉義盛が新たな領地を貰いました。それは、安田三郎義定の部下達を処刑した褒美です。今までにも何度か手柄を立てているので、この機会に表彰しましたとさ。
遠江守安田義定の部下達五人を名越のあたりで斬首しました。
それは、前滝口榎下重兼、前右馬允宮道遠式、麻生平太胤国、柴藤三郎、武藤五郎達です。和田左衛門尉義盛がこの事を指導担当しました。
遠州安田三郎義定を処刑しました。去年息子の越後守義資が処刑され、領地を取上げられたので、さかんに愚痴を言っていました。又、普段仲の良い人達に話しかけて、反逆を企んでいる事がばれたからだそうです。
遠江守従五位上源朝臣安田三郎義定〔歳は六十一です〕
安田冠者義清の四男
寿永二年八月十日に遠江守に任命され、従五位下の位を与えられました。
文治六年正月二十六日滞納により下総守に転任されました。
建久三年三月六日遠江守に返り咲きました。
同年に従五位上を与えられました。
姫君(数え年17歳)の病気が治りましたので、病の気を洗い流すため沐浴の儀式をしました。
しかし、神仏への頼みがずうっとある訳ではないので、人は皆心配をしていました。このことは心配悩みが積み重なって行くばかりです。
そこで一条高能との結婚を御台所政子様が内々に進めていましたが、承知を致しません。
「なお無理に話を進めるならば、この身を深い水の淵に沈めてしまいましょう。」と云われるのでした。
これは今だに昔の思い出を忘れられないでいるからなんだとさ。
この話を武衛(高能様)の耳に入ると「この話はもうこれ以上進めるのはよしましょうよ。」と女官をとおして、政子様にお断りしました。
馬場での行事は、流鏑馬以下いつもの通りです。将軍頼朝様がお出ましです。
江間太郎(北条泰時)が初めて流鏑馬を射て、褒美を貰いましたとさ。
鶴岡八幡宮の放生会です。舞楽もあります。
将軍頼朝様がお参りです。右兵衛督一条高能も廻廊に着席しました。
右兵衛督一条高能が、京都からやってきました。この人は、頼朝様の姉の子なので外甥です。
すぐに幕府へ来てご対面になられました。宿泊先は、他にする必要は無いので、幕府内の別棟の小御所にされましたそうな。
京都六条堀川の左女牛八幡宮(六条若宮)内で、特別な祈祷を祈るように、季厳阿闍梨に伝えさせましたとさ。
今朝の午前4時頃、将軍家頼朝様は相模の国の日向山に向かいました。ここは行基菩薩が建立した薬師如来の神聖な所であります。この国においては一番効験の高い薬師如来なので、思い立って出発しました。馬に乗り水干を着て行かれましたとさ。
前を行く軍装の侍
畠山次郎重忠 土屋兵衛尉義清 八田左衛門尉知重 曽我太郎祐信
足立左衛門尉遠元 比企弥四郎時員 渋谷庄司重国 岡崎先次郎政宣
三浦左衛門尉義連 梶原左衛門尉景季 加々美次郎長清 里見冠者義成
北条五郎時連 小山左衛門尉朝政
頼朝様の太刀持ち
結城七郎朝光
頼朝様の弓矢持ち
愛甲三郎季隆
(ここに頼朝が入る)
頼朝様のすぐ後〔着水干(平服)を着た侍〕
武蔵守義信 上野介憲信 上総介義兼 伊豆守義範
関瀬修理亮義盛 因幡前司廣元 下河辺庄司行平 同四郎政義
千葉新介胤正 同六郎大夫胤頼 三浦介義澄 同兵衛尉義村
稲毛三郎重成 葛西兵衛尉清重 八田右衛門尉知家 佐々木中務丞経高
同三郎盛綱 加藤次景廉 江兵衛尉能範 和田左衛門尉義盛
梶原平三景時 北條小四郎
後陣隨兵(後ろから行く軍装の侍)
武田五郎信光 榛谷四郎重朝 小山五郎宗政 江戸太郎重長
長江四郎明義 梶原次郎兵衛尉景高 相馬次郎師常 野三刑部丞成経
新田四郎忠常 下河辺六郎光脩 所六郎朝光 境兵衛尉常秀
梶原刑部丞朝景 佐々木五郎義清
因幡前司大江広元が下毛利庄で弁当を献上しました。仏にお祈りした後、夜中になったので帰られました。泊り込んで拝んだほうが良いのですが、8月15日に八幡宮の放生会があるので、その必要は無いと判断なされました。この参拝は内内のことですが、姫君(数え年17歳)のためにお祈りになったんだとさ。
御所の中で、絵に描いた毘沙門天の法要をされました。指導僧は、法橋行恵だそうです。
今日から十五日の放生会まで、殺生を禁止するように仰せになられました。
関東の分については、主計允藤原行政が担当です。
将軍頼朝様の姫君(数え年17歳)が夜になって具合悪くなりました。
これは何時もの事ではありますけれども、今日は特に急を要するようです。清水義高様のことがあってから、悲観をされて日増しに憔悴して行く。まるで鉄を断ち切る程の清水義高を慕う心に耐え切れず、石になるほどの思い沈み様でありましょうか。
これは貞操観念の強い人だからだと皆が美談と誉めるところです。
前中納言一条能保様からの伝令が到着して申し上げました。
宇都宮左衛門尉朝綱法師に、国司の訴えで、その罪が確定し、先日の二十日に流罪の太政官布告を発出されました。朝綱は土佐国(高知県)。孫の弥三郎頼綱は豊後国(大分県)、同じ孫の五郎朝業は周防国(山口県)です。又検非違使の基重〔右衛門志〕は、宇都宮朝綱の味方をした罰で、京都市内から追放の罪にされましたとさ。
このことについて将軍頼朝様は大変お嘆きになられました。板垣三郎兼信、佐々木左衛門尉定綱、宇都宮左衛門尉朝綱法師は、皆それなりの身分ある人達なのです。佐々木定綱は、延暦寺の訴えなのでどうしようもなかったが、今の朝綱の罪は、国の年貢を横取りだなんて、関東にとってはえらく名誉を失う出来事だそうだ。
すぐに、結城七郎朝光に様子を見に京都へ行かせましたとさ。
江間殿(北条義時)は、伊豆国へ向かわれました。願成就院が破損したとの事があって、修理をするためだそうな。
将軍頼朝様は、鎧と剣と弓矢を九州の鏡神社に奉納しました。
その神社の大宮司草野大夫永平が、訴訟する事があって代官をよこしたので、大蔵丞武藤頼平を担当させてこの訴えを扱わせる事にしましたとさ。
信濃国(長野県)大井庄(佐久郡岩村田)の年貢について、今年の分については十一月中に京都へ完納するように、命じられましたとさ。
永福寺の境内に一棟の寺院を建てられます。今日がその棟上式で、将軍頼朝様も見物です。
工人たちが褒美を貰いました。大工の棟梁には、馬を三頭〔一頭は鞍付き〕、公卿用の飾り太刀一振り。職人の小工(大工)には、それぞれ馬一頭、白い布十反です。右京進仲業が担当しました。
将軍頼朝様と御台所政子様が、鶴岡八幡宮へお参りです。
民部卿吉田経房が云ってきた事があります。
東大寺完成祝賀式典の日について、来春の正月にしようと、すでに決められているものの、遠い国の連中が、仏様との縁を結ぶために京都へ集ってきたのでは、正月と重なり時期が悪いのではと、申し上げたところ、この行事出席のため将軍頼朝様が京都へ上るとすれば、お供の連中は正月をのんびり迎える事も出来ないと、文句をつける時期でしょう。それならば、多少延期した方が、開眼供養に集る民衆も願いが叶うだろうと、伝えるようにとのことだそうです。
武蔵国で、大川戸御厨の管理人と伊豆宮の下働きとの間に喧嘩が発生しているとの噂があります。
頼朝様はとても驚かれたので、調べて処理するように、掃部允二階堂行光を現地へ行かせましたとさ。
東大寺の修理については、将軍頼朝様を始めとする面々が助成しております。材木については、佐々木四郎左衛門尉高綱に命じて、周防国で特に調達しております。
又、菩薩像二体と四天王像は、御家人に割り当てて造るようにとのことです。
それらは、観音菩薩像〔宇都宮左衛門尉朝綱法師〕虚空蔵菩薩像〔穀倉院筆頭中原親能〕増長天像〔畠山次郎重忠〕持国天像〔武田五郎信光〕多聞天像〔小笠原次郎長清〕広目天像〔梶原平三景時〕。
又、戒壇院の整備は、同様に小山左衛門尉朝政、千葉介常胤以下の連中に言いつけられました。
しかし、その工事がとても遅れているので、今日催促をなされたのであります。但し、それぞれひたすら仏との縁を理解して、寄付するように前に命令しているのです。単に上からの命令に従ってやるのだと思って、怠けているのなら辞退するようにと、厳しく命じられているのだそうです。
夜明け前に将軍頼朝様は、甘縄神社へお参りをしました。この神社は、伊勢神宮の末社です。
京都の監獄の囚人数人を京都から護送して、そいつ等を奥州(東北)へ流罪にし労役に使うように、伊沢左近将監家景(後の留守家景)の代官に命じられました。こいつ等は強盗の連中だそうです。
将軍頼朝様の若君(万寿丸、後の頼家)は、岩殿観音堂(逗子の岩殿寺)で夜明かしする通夜を行われました。そのついでに相撲があって、お供の力自慢の若者達に命じて勝負をさせましたとさ。
将軍頼朝様は、六代御前を呼びつけてお会いになられました。
反逆の心がないのなら、一つの寺の代表管理者にしてあげようと、おっしゃられましたとさ。
鶴岡八幡宮の楽人達については、大夫属入道三善善信が指示担当するように、命じられましたとさ。
皇后宮大進伊佐為宗の家来の源五七郎を、和田左衛門尉義盛に命じて、禁固刑にしました。
それは、去年横山権守時広が献上した異形の馬を、奥州の辺境へ放す様にしたのですが、この男は縁起が悪いと云って、途中で弓矢で射殺してしまったのです。そのことがたちまちばれてしまい、いち早く行方をくらましたのです。主人である為宗に命令して捜させたところ、最近たまたま捕まえてきたのだそうな。
東大寺の落慶供養(竣工式)の雑事についての総目録を、民部卿〔吉田経房〕に上皇への取次ぎをするように、送られました。
儀式の坊さん達へのお布施や、東大寺への供養料の米については、御家人達に寄付を募り、処理して送る様にと命じられました。
最初の建設以来、金品の寄進によって大事業を遂行出来ているので、今が一番助成するべき時なのだそうな。
この命令によって、因幡前司広元(大江)と大夫属入道三善善信が指揮担当をして、命令書を諸国の守護人に送りました。守護は、国中に寄付を募るようにとのことだそうです。
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