吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)五月小二十四日甲申
軍事警察統合本部の侍所への出仕名簿について、和田左衛門尉義盛や梶原平三景時が支障があるときは、処理をするように大友左近将監能直に、命令されましたとさ。
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軍事警察統合本部の侍所への出仕名簿について、和田左衛門尉義盛や梶原平三景時が支障があるときは、処理をするように大友左近将監能直に、命令されましたとさ。
宇都宮左衛門尉朝綱法師が、国衙領百余町(100ha)の年貢を横取りしたと下野国司(県知事)の行房が、後鳥羽上皇の了解を得た上で、代官を派遣してきて、この事を訴えて来ました。
将軍頼朝様は、特に驚いてその訴えを聞かれました。代官の云う事が本当ならば、重罪に処罰するように、命じられましたとさ。
平家嫡流の六代御前について、処遇を決められました。しばらく関東に留まっているようにとのことでした。その理由は、平治の乱で捕われたときに、故小松内大臣平重盛が、頼朝様の命乞いを助言してくれたので、その恩を忘れていないので、このような処分にしましたとさ。
砂金百三十両を京都へ送りました。朝廷へ献上するように一条能保に命令を伝えさせましたとさ。
これは、東大寺の大仏の完成に使う渡金(金メッキ)用を、先の春頃に贈られた残りの分なのです。三百両(約4千9百万円)必要だとのことです。
御所の全ての建物の軒上の屋根に、端午の節句の魔よけの菖蒲を葺く役は、桧皮葺の屋根葺きの役目の桧皮葺師の管轄とするように、お命じになられました。毎年、政務事務所政所の下働きの仕事とするそうです。」
今日、鶴岡八幡宮の端午の節句の神事です。将軍頼朝様もお参りをなさいましたとさ。
右京進中原季時が、寺社の訴訟ごとを取り扱うようにと、仰せ付けられましたとさ。
由比の浦の漁師が、今晩病気でもないのに死にました。しかも心安らかな死顔をしておりました。人々は先を争って見に来ました。きちんと座って手は合唱をして、少しも心や気持ちがゆれ動くような様子はありませんでした。
将軍頼朝様は、その話しを聞いて喜びの余り、梶原三郎兵衛尉景茂に命じて訪ねさせたところ、この男は、普段魚を釣ることを生活の糧にしていました。但し、殺生を生業としてはいるが、そういう時でも南無阿弥陀仏と唱えて、手を抜く事はありませんでした。
褒め称えるお気持があるので、白米を下されて、遺された家族に菩提を弔うようにと、仰せになられましたとさ。
相模の国中の神社仏閣の成り立ちを書き出させるために、右京進仲業と安房判官代源高重とを廻らさせましたとさ。
伊豆山權現(走湯山神社)は、読み終えたお経の数を報告しました。大般若経を略読みだそうです。
相模の国中の神社仏閣が昔から伝えられている神や仏については、以前どおりに儀式を行うように、三浦介義澄に言い含めましたとさ。
故小松内大臣(平重盛)の孫〔惟盛の息子〕の六代禅師が京都からやってきました。高尾の門覚上人の紹介状を持っております。
「頼朝様の温情によって、命を繋ぎとめておりますので、関東への悪巧みなぞ持ってはおりません。ましてや、出家をして世捨て人となっているのですから。」と大江広元を通して申し上げたんだそうです。
由比の浦へお出ましです。笠懸の勝負をなさいました。その理由は、氏家五郎公頼が永い事国へ帰っており、近頃鎌倉へやってきたのです。
そこで彼を呼び出して参加させました。その抜群に秀でた弓の腕前を見るためなのです。人々も同様に見に集ってきました。
特別なお願いがあるので、伊豆山権現神社の社殿の前で、大般若経を略読みのお経を上げるように、伝えさせて、馬を奉納されましたとさ。
鎌倉中の道路を作らせます。梶原平三景時がこれを指揮担当します。
源蔵人大夫頼兼の使いが京都から到着して、手紙を差し出しました。京都の大内裏を警固していた先月二十八日、仁寿殿の前で、怪しい奴をとっ捕まえて、腕づくで尋問したところ、大内裏を焼こうとしたとのことです。この上は、詳しく調べる必要も無いので、直ちに首を刎ねましたと書いておりましたとさ。度々の手柄をあらわすので、武勇伝では先祖に負けていないと、将軍様は特に感嘆しましたとさ。
八幡宮の神事は昨日の通りです。里見冠者義成が御幣を捧げる使いをしましたとさ。
鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。将軍頼朝様のお参りは有りません。右京進中原季時が、御幣を捧げる代参として宮参りをしました。
流鏑馬などの奉納は何時もの通りでしたとさ。
伊豆国韮山の願成就院で、規則どおりにお経十種類をあげさせました。
これは、伊東次郎祐親法師や大庭三郎景親の死後の菩提を弔うためです。
砂金を京都朝廷へ送られました。これは、東大寺大仏の造作費用です。
仏師の院尊に与えるべき費用の二百両を送るように、命令書を書かさせましたとさ。
諸国の守護人が国衙領の納入分を横取りしていると、聞こえてきたので、すぐに止めるように命令を出されました。
巳の刻(午前十時頃)に八幡宮から御所へお帰りになりました。それなのに朝日に耀きが無いのです。まるで日食みたいです。かと云って、特に煙や霞がかかっているわけではないのです。又、春霞の景色とも云い難いのです。人々は皆、不思議な思いにかられました。
将軍頼朝様は、八幡宮寺の長官の坊へ参られました。それは、長官の法眼が京都から稚児達を呼び寄せたからです。歌謡やリズムや踊りにも長けています。その芸を見ましょうと招待されたからなのです。
酒宴が有り、稚児達が芸を見せました。坊さん達は、延年の舞を踊りました。頼朝様のお供の青年達も、頼朝様に命じられ、この踊りに加わりました。予想以上の見物でした。そんな様子を見て、頼朝様は、若し工藤祐経が生きておったら、さぞかし楽しませただろうがな、とおっしゃられました。そして、ぽろぽろと涙を流されましたとさ。
昔京都朝廷の牧場だった甲斐国武河御牧の名馬が八頭やってきました。
頼朝様がご覧になった後、京都へ送られましたとさ。
主計允藤原行政の息子の掃部允藤原行光(二階堂)を、政務事務所政所の事務官に加えましたとさ。
三島神社への千度(お百度参りの十倍)参りをするために、幕府の女官の上野局に命じていかせました。特別なお願いがあるからだそうな。
鶴岡八幡宮の上巳の節句の法要は何時もの通りです。将軍頼朝様も出席だそうな。
九州の御家人達に本領安堵等の褒美が与えられました。
三浦(三浦半島)と渋谷(高座渋谷)から、竹数十本を持って来らせて、今日南御堂勝長寿院の後ろの山の麓に植えさせました。将軍頼朝様も見学がてら様子見に来ました。三浦介義澄が指揮担当だそうです。
大倉観音堂杉本寺へお参りです。帰りがけに江間北条義時殿の屋敷へお寄りになりましとさ。
武蔵国の川越庄の本所新日吉社への年貢が未納だと、京都朝廷から命じてきたので、特にきちんと決済するように、今日雑役を川越へ派遣しましたとさ。
佐々木三郎盛綱が、生鮭〔二匹〕を届けました。越後国の所領(加治庄)の土産だそうです。特にお好きなのです。
一匹は、現在御所へ勤務している者達にも分けてあげたそうです。
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