吾妻鏡第十四巻 建久五年(1194)二月小十一日癸卯
鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。将軍頼朝様がお参りをされました。
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鶴岡八幡宮の臨時のお祭です。将軍頼朝様がお参りをされました。
御台所政子様が、江間北条義時殿の屋敷へ出かけられました。
御台所政子様が、箱根と伊豆の二所詣でからお帰りになられました。
快晴です。夜になって、江間義時殿の跡取りの息子〔子供名は金剛で年は数え年の十三歳〕が元服しました。幕府でその儀式がありました。西の侍所に調度飾りを三行に用意しました。
一方に着席しているのが、
武蔵守大内義信 上総介足利義兼 伊豆守山名義範 信濃守浅利遠義
相模守大内惟義 江間小四郎義時殿 大和守山田重弘 八田右衛門尉知家
葛西兵衛尉清重 加藤次景廉 佐々木三郎盛綱
一方に着席しているのが
千葉介常胤 畠山次郎重忠 千葉新介胤正 三浦介義澄
梶原平三景時 土屋三郎宗遠 和田左衛門尉義盛 藤九郎盛長
三浦左衛門尉義連 大須賀四郎胤信 梶原刑部烝朝景
一方に着席しているのが
北条時政殿 小山左衛門尉朝政 下河辺庄司行平 結城七郎朝光
宇都宮弥三郎頼綱 岡崎四郎義実 宇佐美右衛門尉助茂 榛谷四郎重朝
比企右衛門尉能員 足立左衛門尉遠元 江戸太郎重長 比企藤内朝宗
予定時刻になると、北条時政殿は立って行って、子供を連れて来ました。すぐに将軍頼朝様がお出ましになり、自ら元服の冠をかぶせる式を行いました。大内武藏守義信と千葉介常胤が松の棒の灯りを持って左右におりました。名前は、太郎頼時と名付けました。
加冠のお礼に鎧を始めとする武具一式を献上しました。新成人にも又、引き出物を戴きました。刀は里見冠者義成が手渡しましたとさ。
次ぎに祝杯を三度して、ご馳走が振舞われました。その後、酒が進み宴会となって、歌や踊りまで出る有様でしたとさ。それから、三浦介義澄をそばにお呼びになり、この新成人を婿にしてはどうかと、言い含めました。孫娘の中から調度良い相手を選んで、仰せどおりに致しましょうと返事をしましたとさ。
伊豆の国の年貢である「甘海苔」を京都へ送られました。雑用の吉野三郎を使いにしましたとさ。
御台所政子様は、伊豆山権現(走湯山神社)と箱根権現(箱根神社)に御幣を納めるために、出発なされましたとさ。
永福寺、勝長寿院の仏様を拝まれましたとさ。
将軍頼朝様が、西御門の三浦介義澄の屋敷へ赴かれました。
今年初めて弓を射る弓始め式です。
射る人は、
一番が、下河辺庄司行平 対 和田左衛門尉義盛
二番が、結城七郎朝光 対 榛谷四郎重朝
三番が、海野小太郎幸氏 対 藤沢次郎清近
射終わって、それぞれに褒美が出ました。予め、頼朝様の御前のすのこに置かれていたものです。
将軍頼朝様は、藤九郎盛長の甘縄の屋敷へお出かけ始めです。
御所で般若心経を唱える会です。指導僧は、法眼行恵。お供の坊さんは、大法師禅衍、源信、禪寮です。
まず、上の台所で食事をすすめ、その次にお経の解釈をしました。この間、将軍頼朝様はお出ましになられ、説教をお聞きになられました。
それらの儀式が終わって、お布施を与えられました。指導僧には、被り物を二重、袋詰めを一つです。お供の坊さんには一人づつに、つむぎをニ疋(四反)です。皇后宮権大進伊佐為宗と安房判官代源高重が手渡しました。
甘縄神明神社と御霊神社権五郎神社へ御幣を届けます。八田右衛門尉知家が代参しました。
将軍で前右大将でもある頼朝様が、鶴岡八幡宮へお参りです。
御所へ戻った後、ご馳走の振る舞いがありました。上総介足利義兼が戦争用の征矢と弓や馬などを献上しました。太刀は里見冠者義成がこれを持って献上しましたとさ。
佐々木左衛門尉定綱の元の領地は全て返し与えました。
そればかりか、七つの国の一箇所をプラスして与えました。隠岐の国については、一切他人の権限を排除して、一箇所を一つの権利として地頭職を戴きました。長門・石見の両方の国の分については、守護職に任命されたのです。
八田前右衛門尉知家に命令して、常陸国在住の豪族下妻四郎弘幹を処刑されました。
この人は、北条時政殿に恨みを抱いており、常に笑いの内に刃物を秘め、心では暴言を吐いてます。それが最近思いもよらず、ばれてしまったからだそうです。
遠江守安田義定の所領、遠江国浅羽庄の地頭職を取上げられ、加藤次景廉をその替わりに任命しました。
今日、正式の任命書を与えられました。大蔵丞頼平が事務を担当しましたとさ。
大内相模守惟義は、神様の社前にお参りする代参として、尾張国の熱田神宮へ行って、馬〔黒栗毛〕を奉納しました。又、(頼朝様は)別の贈り物を大宮司の藤原範経に渡させました。これは、特別にご祈祷をするようにとのことでした。
人々が褒美を貰いました。因幡前司(大江)広元、主計允藤原行政(二階堂)、大蔵烝頼平が、この事務を担当しました。
僧正が京都へ帰りました。」
この日の夕方に、越後守安田義資が、女の問題で首を切られました。加藤次景廉に命じられました。その父の安田遠江守義定も、その犯罪人の縁者としてすっかり嫌われてしまいました。
この原因は、昨日の永福寺薬師堂供養(着工式)の最中に、恋文を女官がお経を聞いている所へ投げ込んだのです。でも、女官は後日の災難を恐れて、あえて表沙汰にしなかったのですが、梶原源太左衛門尉景季の妾〔竜樹の前と呼ばれます〕が夫の景季に告げ口をしてしまったのです。
景季も又、父の梶原景時に話してしまいました。梶原景時は、この時とばかりに将軍頼朝様に報告をしました。
そこで事の真実を確かめてみると、女官達が言っている事とぴったり合ってしまったので、このような処分になったのであります。
中国の故事から「三年も関東に使えてきたのに、怒らすような事をしなければ、なんでたった一日で首を刎ねられるような事にめぐりあおうか。」
従五位下守(低位高官)安田越後守源義資〔年齢?〕
遠江守安田義定の長男
文治元年(1185)八月十六日任命されました
永福寺の薬師堂の供養(着工式)です。将軍頼朝様は寺の境内にお渡りになられました。南門の外で行列を整えたのです。千葉小太郎成胤が刀持ちで、愛甲三郎季隆が弓を担ぎましたとさ。
前を行く儀杖兵は
畠山次郎重忠 葛西兵衛尉清重 源蔵人大夫頼兼 村上左衛門尉頼時
氏家五郎公頼 八田左衛門尉知重 三浦介義澄 和田左衛門尉義盛
下河辺庄司行平 後藤左衛門尉基清
後ろを行く儀杖兵は
北条五郎時連 小山七郎朝光 梶原源太左衛門尉景季 梶原刑部左衛門尉定景
相馬次郎師常 佐々木左衛門尉定綱 工藤小次郎行光 新田四郎忠常です。
頼朝様が御出になられた後、昼頃になって、指導僧の前権僧正真円がお供の坊さん達を引き連れて、お堂へやってきました。式典が終えるとお布施を引かれました。
指導僧の分は
錦織りの被り物二十重ね 綾織の被り物百重ね 砂金五十両 つむぎニ百疋(四百反)
紫染めの絹五十反 白い布二百反 藍の摺り染め三百反 真綿五百両
色染めの皮百枚 鞍置き馬十頭
同様におまけの布施は、将軍様からの着物一領、水晶の数珠、黄金作りの刀一腰
お供の坊さんの分は人毎に
錦織りの被り物五重ね 綾織の被り物三十重ね つむぎ五十疋(百反) 染めた絹五十反
紫染めの絹ニ十反 白い布百反 藍の摺り染め百反 真綿三百両
色染めの皮三十枚 鞍置き馬三頭
御所へお帰りになられた後、丸く巻いた絹を百反、染めた絹百反、どてら一領、お米百石の目録〔近江の国で現物を引き渡すように〕を僧正の宿舎に届けさせました。比企藤内朝宗が使者を果たしましたとさ。
上総国の小野田郷在住の豪族で本大掾国廉は、叔母を切った罪があるので、これを呼び寄せました。
伊豆大島へ行かせるように、北条時政殿が命じられましたとさ。
神様への馬〔鹿毛〕を鷲宮神社へ奉納しました。又、神殿などを荘厳にするようにと仰せになられました。
榛谷四郎重朝が使者になりましたとさ。
武蔵国の伝令がやってきて申し上げるのには、昨夕、武蔵国太田庄鷲宮神社の神殿の前に血が流れていたので、縁起が悪い怪しい事だそうです。直ぐに占わせて見たところ、戦争の前触れだとのことです。
永福寺薬師如来供養(着工式)のために来た亮僧正真円が、鶴岡八幡宮と勝長寿院の景勝地を廻り参りました。そのついでに幕府に来ました。将軍頼朝様は、彼とお会いになられ贈り物をしましたとさ。畠山次郎重忠が給仕を勤めましたとさ。
右近将監多好方は、お神楽を引き受けてくれた褒美に、今日、飛騨国荒木郷の地頭職として政所の命令書を作らせました。国衙への納入分は、今までの例の通りに納めるようにと、書かれているのであります。因幡前司(大江)広元と主計允藤原行政(二階堂)がこれを処理しましたとさ。
永福寺のお堂の供養(着工式)の坊さん達へのお布施などについては、主計允藤原二階堂行政、筑後権守藤原俊兼、民部烝平盛時、右京進中原仲業が担当してこれらを取り寄せ整えましたとさ。
前権僧正真円〔亮と呼ばれます〕が京都から到着しました。これは永福寺の敷地内にお堂を建て、薬師如来を安置されるので、その供養(着工式)の指導僧として、お呼びになられたからです。
比企右衛門尉能員の家を宿舎として指定し、そこへ招かれましたとさ。又、式典に捧げる文書も届きました。草案は式部大夫光範様で、清書は按察使朝方様だそうです。
右近将監大江久家が、先日の夜の鶴岡八幡宮に星が降っている絵を献上しました。将軍頼朝様は特に信心をなされたそうです。
鶴岡八幡宮の神事です。将軍頼朝様もお参りです。
まず、神宮寺の仏寺の問答形式の戒律のお経です。そしてそれは、夜遅くになって、お神楽を奉納しました。多好節が宮人曲を歌いました。なんとその時、空が曇って急に雨が瑞垣を濡らし、寒空は真っ暗だけど、星が神殿上に現れました。神様がお聞き届けになって下さったご威光があきらかに現れたのです。未だかつて聞いた事のない話だとさ。
幕府のお蔵に納める予定の米百石と大豆百石を遠い国から来ている御家人達に分け与えましたとさ。主計允藤原行政が担当をしました。
佐々木左衛門尉定綱が到着しました。先日来薩摩に流罪となっていたのです。
先だっての三月十二日に、後白河法皇の一周忌の法要に、朝廷の罰を許されたのです。
将軍頼朝様は、この流罪が心配事になっておりましたが、運良く恩赦されたので、とてもお喜びになり、すぐに目の前にお呼びになりましたとさ。近江国の守護の職は、元の通りに勤めるようにとのことでありました。
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