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2023年11月

2023年11月30日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大二十一日甲寅

関東御領の納税の計算報告について、担当する奉行達が自分の家でその事務を行っていると噂を聞いたので、それはとんでもない。今日までに終わっている以後については、幕府の政務機関政所の指揮で処理するようにと、仰せになられましたとさ。

2023年11月29日 (水)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大十日癸卯

野本斉藤左衛門大夫尉基員の息子で未だ幼い子が、幕府で元服式を行い、鎧などを献上しました。
将軍頼朝様からは、お返しに諸道具が与えられましたとさ。

2023年11月28日 (火)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大七日庚子

多好節が呼ばれたので、京都から到着しました。来月鶴岡八幡宮でお神楽を奉納するためなのです。
又、山城江次右近将監久家も一緒に鎌倉へ戻ってきました。この人は、お神楽の秘伝の曲を教わるために、以前に京都へ上ったのです。宮人曲は、一つ残らず教わりましたと報告しました。これに添えて多好方が手紙に書いて、その事を申し上げております。直々の弟子ではないので、本来ならば教えるわけにはいかないのですが、頼朝様の厳しい言いつけを守って、全てを授けましたとのことです。

2023年11月27日 (月)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大三日丙申

南御堂の法事の指導僧が京都から下ってくるので、東海道の宿場での管理や荷物運搬人の供出を御家人に割り当てました。
今日、雑用に連中に文書を持たせて派遣されました。指導僧は、近日の二十日に京都を出発するのだそうだ。
右京進中原仲業と主計允藤原二階堂行政、武藤頼平達が担当だそうです。

2023年11月26日 (日)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大二日乙未

献上品の馬や砂金を、京都朝廷へ送るために、これを御家人に差し出させました。

2023年11月25日 (土)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)十月大一日甲午

将軍家嫡男の若君(万寿丸、後の頼家)が、江間義時様の新築の美しい屋敷に行かれました。義時様は若君に馬や剣を献上されました。

2023年11月24日 (金)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大三十日癸巳

南御堂勝長寿院の法事について、警備をするために鎌倉へ出仕するように、公文書を鎌倉周辺の国に住む御家人へ回覧させました。
梶原平三景時と右京進仲業が指示担当しました。

2023年11月23日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大二十七日庚寅

来月の御堂勝長寿院の法事の指導僧が京都から鎌倉へ下向する間の世話を、宮内大輔藤原重頼に命じられましたとさ。

2023年11月22日 (水)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大二十六日己丑

母方の大叔父憲実法眼の未亡人が、幕府へやってきました。
祖父の故季範様の縁を放っては置けないので、特に大事になされお会いになられました。
そればかりか、亡き夫上綱(官僧の上席)憲実法眼の遺産を引き継いで管理するように、命じられましたとさ。

2023年11月21日 (火)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大二十一日甲申

母方の大叔父憲実法眼の子供の玄番助大夫仲経は、美濃国土岐多良庄を与えられました。親戚の縁があるからです。

2023年11月20日 (月)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大十八日辛巳

将軍頼朝様が岩殿(岩殿寺)と大倉(杉本寺)の両観音様にお参りに行かれました。
姫君(数え年16歳)が病気なので良くなるようお願いに行かれたのだそうです。

2023年11月19日 (日)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大十一日甲戌

江間殿(北条義時)の跡取り息子の子供(泰時)は、先日来伊豆の江間に居たのですが、昨日鎌倉へ戻りました。先日の七日の午前六時頃、伊豆の国で小鹿一頭を射止めました。すぐにこれを持って、今日御所へ参りました。
義時様が矢口祭りの餅を供えて、詳しい話をしていると将軍頼朝様が、西の侍だまり(出仕の侍の控え)へ顔を出されました。上総介足利義兼や伊豆守山名義範を始めとする御家人が並んで従いました。まず蒸かし饅頭を供えました。
将軍頼朝様は、小山左衛門尉朝政を呼ばれて始めの一の口役を与えました。
小山朝政は、頼朝様の前に蹲踞して三回これを食べて、一度目に叫び声を上げ、二度目三度目は声を出しませんでした。
次ぎに三浦十郎左衛門尉義連を呼ばれて、二番目の口役を与えました。三回食べて、毎回叫び声を出しました。三人目の口を誰にしようか悩んでおりました。少しして諏方祝盛澄を呼ばれましたが、あえて遅く来るようにしたようです。
そして三番目の口役をお与えになりました。やはり三回食べましたが、叫び声は出しません。
大体矢口餅の食べ方は、三回食べるのが礼儀のようだ。しかし、代々伝わる方法には、それぞれ差があるのです。とても良い勉強になったと、感嘆のお言葉をお与えになられました。その後、宴会になりましたとさ。

2023年11月18日 (土)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大七日庚子

亡くなられた後白河法皇のお屋敷の宣陽門院は、現在無住なのです。空き家を住処にする強盗団達の仕業がとても心配だと、前中納言一条能保がこぼしてきているので、その処分について会議をもたれました。
関西の御家人に言いつけて、留守番をさせるようにと、佐々木経高、佐々木盛綱、後藤基清に言いつけられましたとさ。

2023年11月17日 (金)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)九月大一日甲子

多気義幹から取上げた所領とその地頭職を馬場小次郎資幹にお与えになられましたとさ。

2023年11月16日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小二十九日癸亥

御台所政子様は、逗子の岩殿観音堂(岩殿寺)へ詣でられました。弟の北条五郎時連がお供をなされたそうです。

2023年11月15日 (水)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小二十四日戊午

大庭平太景能と岡崎四郎義実が頭を丸めました。特にこれといった理由は無いのですが、それぞれ年をとったので、役職をしりぞいて、何時かはしたいと願っていた出家をしたんだとさ。

2023年11月14日 (火)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小二十三日丁巳

大姫の病気が治ってきましたので、病の気を洗い流すため、病後のお風呂に入る儀式がありましたとさ。

2023年11月13日 (月)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小二十日甲寅

故曽我十郎祐成の同腹の兄弟の京小次郎が処刑されました。三河守範頼に連座だからだそうな。

2023年11月12日 (日)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十八日壬子

午後四時頃、三州源範頼の家来の橘太左衛門尉、江瀧口、梓刑部丞達が、武器の手入れして宿に立てこもって入るとの噂があったので、結城七郎朝光、梶原平三景時親子、新田四郎忠常達を差し向けました。簡単に範頼の家来の奴等は負けてしまいましたとさ。

2023年11月11日 (土)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十七日辛亥

三河守範頼様が伊豆へ送られます。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂が警護して行きました。帰れる時期は決まっていないのだからまるで流人と同じ扱いだ。
当麻太郎は薩摩に送られました。斬殺にされるところを姫君(数え年16歳)の病によって罪一等を減ぜられました。これは陰謀の用意がばれたので、他意はない旨起請文を書いたけれども、当麻の行いは許されることではないので、この処分にしましたとさ。

2023年11月10日 (金)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十六日庚戌

同じ八幡宮の奉納の馬場の流鏑馬です。将軍頼朝様のお出では昨日に同じです。
その射手は
 
三浦平六兵衛尉義村 北条五郎時連
 小山又四郎朝長   下河辺六郎光脩
 和田三郎宗実    氏家五郎公頼
 海野小太郎幸氏   望月三郎重隆
 榛谷四郎重朝    千葉平次兵衛尉境常秀
 小笠原次郎長清   武田五郎信光
 梶原三郎兵衛尉景茂

2023年11月 9日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十五日己酉

鶴岡八幡宮の魚鳥を放つ放生会の供養式典です。
将軍頼朝様のお参りがありました。武装した警護兵三十人が前後に分かれてお供をしました。結城七郎朝光が刀持ちで、梶原源太左衛門尉景季が頼朝様の鎧を着け、宇佐美三郎助茂が弓箭を掛けていましたとさ。

2023年11月 8日 (水)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十二日丙午

姫君(数え年16歳)の病気が再発しましたとさ。

2023年11月 7日 (火)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小十日甲辰

午前四時頃に鎌倉中が大騒ぎになり、元気な武士達が鎧兜を見に着けて、幕府へ走ってまいりました。しかし、間もなく静かになってしまいました。

これは、三河守範頼の家来の当麻太郎が頼朝様の寝間の床下に伏せていたからです。将軍頼朝様は、未だ寝ていなかったので、その気配をお知りになり、そおっと結城七郎朝光、宇佐美三郎助茂、梶原源太左衛門尉景季等を呼び寄せました。当麻を見つけて捕えるためなのでした。

夜が明けてから尋問したところ、言うのには、「三河守範頼さんが、誓約書を差し出したのに、一切その後の音沙汰が無いので、良し悪しを悩んでおられます。内緒でご機嫌を知り、安否を覚悟したいと、とても打ち沈んでおられるので、若し何かのついでにこの事を言い出すかどうか、様子を探るために来た訳なのです。全く陰謀なんて考えていません。」とのことでした。

直ぐに三河守範頼に問い合わせたところ、知らなかったと云われました。

当麻太郎はお詫びの言葉を尽くしましたが、そのとった行動が異常だったので、普段の疑いがぴったり合ってしまいました。そればかりか、当麻太郎は、三河守範頼が特に頼りにしている勇敢な武士で、弓や剣の武術に優れていると其の名を知られている者なのです。その心の中にはとても怪しいものが存在すると、決断をされて、許すつもりはありません。おまけに三河守範頼が同意して悪巧みがあるのかどうなのか、何度究明しても当麻はうつむいて、それ以上一言も発言しなかったそうです。

2023年11月 6日 (月)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小九日癸卯

将軍頼朝様は、油井の浦へお出かけです。
それは、来る十五日の放生会の流鏑馬の射手を呼んで連れて行かれました。それぞれの腕前を試されました。
北条五郎時連は、初めてこの役につきます。下河辺庄司行平に命じて、そのやり方を教えさせました。
しかし、弓の持ち方について、武田兵衛尉有義と海野小太郎幸氏が異論を唱えました。下河辺行平は、先祖代々の伝えられた来た口伝やエピソードを話したので、将軍頼朝様は、それについてとても感心されたのは勿論でした。

2023年11月 5日 (日)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小六日庚子

宇佐美三郎祐茂が、伊豆国から御所へ参りました。言いつけたい事があると呼ばれてやってきたのです。この人は、頼朝様が気に入っているので、故工藤左衛門尉祐経が非業の死にあったので、特におそばに仕えるように云って聞かせたところ、いままでと違えるのですねとの事でした。この他の気の許せる忠義な武士を呼び集められました。近頃用心すべきことがあるからです。

2023年11月 4日 (土)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)八月小二日丙申

三河守範頼は、誓の起請文を書いて、将軍頼朝様に提出しました。この内容は、反逆を企んでいると聞いたので、本人に尋ねられた結果の事なのです。その手紙には、

 謹んでここに誓を立てます。その起請文について、
 私は、頼朝様の代官として、何度も戦場へ出かけました。その結果、京都朝廷の敵を滅ぼすと云う忠義を尽くしてからというもの、全く背く心は持っておりません。頼朝様の子孫の時代になったとしても、同様に忠義を尽くすつもりでおります。その様子は、疑いも無く、お心に従っている事は、しっかりと今までの数々の礼儀正しさに見えますが、あえて表に出さなかっただけです。それなのに今更、何も間違いはしていないのに、この嫌疑をかけられてしまいました。困りきった問題です。所詮、現在といい、後の時代といい、不忠の思いは持ちません。この趣旨でわが子孫にも注意して残しておきます。万が一にも、この手紙に違えたならば、天界では梵天や帝釈天、下界では、伊勢神宮・春日大社・賀茂神社、又特別な源氏の氏神八幡大菩薩の神罰を源範頼の身に当てられるでしょう。そう云う訳で、謹慎して誓の起請文を書いたのはこのとおりです。
 建久四年八月 日                   三河守源範頼

この手紙を因幡守広元(大江)を通じてお見せしたところ、特に怒っておっしゃられるのには、「源の文字を書いているのは、源氏の一族として認識しているのであろう。それは大変な自惚れである。この一字で起請文の価値をうしなっている。と使いの者に伝えなさい。」とのことでした。広元は、三州範頼の使いの大夫属重能を呼んで、この内容を云ってきかせました。重能が弁明して云うのには。「三河守範頼は、故左馬頭義朝殿の賢い息子です。頼朝様は弟さんであることを承知されているのは勿論でしょう。従って、去る元暦元年(1184)の秋の頃に、平家討伐の代理人として京都へ上洛した時に、弟さんの範頼を九州方面征伐司令官として派遣するとお手紙に書かれ、後白河上皇に申し出て、その内容を朝廷からの命令書に載せることになったのです。全く自分勝手をしたわけではありません。」とのことです。それに対し何も仰せになられませんでした。重能は御所から引き下がり、この事を三州範頼に報告しました。三州範頼は、思いもかけないことに出会い、うろたえてしまいました。

2023年11月 3日 (金)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)七月大二十八日壬辰

梶原刑部烝朝景が京都から戻りました。門覚上人の手紙を持ってきました。東大寺造営用所領の年貢を一般人に分け与えた事について弁解をして来ました。

「東大寺を再興する意志はとても深いものです。それなのに、備前国の民は最近ちゃんと納税をしないし、私門覚の命令を守らないので、その土地に縁戚のある連中を兵隊にして、国衙領へ入って勝手に徴税したので、この事を逆恨みして訴え出たのではないでしょうか。こんな事を訴え出た連中は、生きている間は仏が見放して、何も救ってくれないだろう。しかも死んで後の後生には無間地獄へ落ちて、苦しみのたうち、地獄から浮かび上って極楽へ行くようなこともないだろう。」と散々云いたい放題を載せている


きちんとした弁解になっていないので、将軍頼朝様はとんでもないことだと怒っておられましたとさ。

2023年11月 2日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)七月大二十四日戊子

横山権守時広が、一頭の奇妙な馬を引いて幕府へ来ました。その足は九本もあります〔前足が五本、後ろ足が四本〕。「この馬は、所領の淡路国の国分寺辺りから取れたんだと、先だっての五月に云って来たので、疑いながらも呼び寄せてみました。」と申し上げました。頼朝様は伊沢左近將監家景に命じて、陸奥国外が浜(青森市)に放すようにとの事でした。古代中国の周室の三十二の蹄は、馬八頭を合わせた話です。わが日本では、一頭で九本の足を持つ本当に珍しい出来事と言うべきでしょう。でも、二十八宿の房宿の縁起では、これを飼育するには力不足で縁起が悪いので、千里のかなたへ捨て去るのでしょう。瀧挑、もしかしたら逆に栄える元になるかも知れないのに。

2023年11月 1日 (水)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)七月大十八日壬午

鶴岡八幡宮の楽人の大江右近将監久家は、多右近将監好方の弟子となり、お神楽の流派秘密の曲を習うために、旅に出ようと決心をして、先だって京都へ上ったのです。勿論前もって事情を申し入れて有りました。
それでも今日、頼朝様はお手紙を多好方に出させて、「宮人曲は流派の秘蔵なのは勿論承知しているけれども、大江久家に伝えるのは将軍頼朝様に伝える事になるのだと思われるように。」とのことでした。

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