吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)七月大十日甲戌
浜辺には海風が涼しいので、将軍頼朝様は逗子の小坪の辺りへ出かけられました。
長江四郎明義や大多和三郎義久等の三浦の連中が、仮小屋を干潟に建てて、お迎えになり、酒やご馳走を振舞いました。又、釣好きは棹をたれ、勇猛な連中は的を射たりしました。その一つ一つを面白がられて、気分が乗って一日中楽しんでおられ、夕暮れ時になってお帰りになられましたとさ。
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浜辺には海風が涼しいので、将軍頼朝様は逗子の小坪の辺りへ出かけられました。
長江四郎明義や大多和三郎義久等の三浦の連中が、仮小屋を干潟に建てて、お迎えになり、酒やご馳走を振舞いました。又、釣好きは棹をたれ、勇猛な連中は的を射たりしました。その一つ一つを面白がられて、気分が乗って一日中楽しんでおられ、夕暮れ時になってお帰りになられましたとさ。
小栗十郎重成の家来が駆けつけて、梶原景時を通して申し上げて云うのには、「小栗重成は、今年、鹿島神宮の建設責任者をしておりますが、先だってから病気になってとても危険な状態です。その様子をみるとただ事ではありません。かなり狂っていると云って良いでしょう。神様のお告げだといって、訳の分からない言葉をはいているそうです。
去る文治五年(1189)、東北地方で藤原泰衡の倉庫を開いた時に、宝の山を見て、中から玉で出来た幡(バン)を願い出ていただき、自分の氏寺に飾ったところ、毎晩夢の中に、山伏が数十人、小栗十郎重成の枕元に集って、その幡(バン)を欲しがりました。この夢が十日目の夜も続いたので、神経衰弱になってしまったそうです。
この原因で、その鹿島神宮の工事責任者は、馬場二郎資幹に命じられましたとさ。彼は、多気太郎義幹の領地を戴いて、既に常陸国では大名になっているからだそうです。
武蔵守大内義信が呼び出してきた養子の坊さん〔律師と云います〕が、昨夜到着しました。
この人は、曽我十郎祐成の弟です。普段は、新潟県国上山国上寺に居りましたので、来るのが遅れましたとさ。それなのに今日、死刑にされるだろうと聞いて、甘縄辺りで念仏を唱えて自殺してしまいましたとさ。梶原景時がこの話を報告しました。
将軍頼朝様は大変後悔して嘆かれました。元々死刑にするつもりなんかなかったのです。只、兄と同様に考えていたのか、取り調べたかっただけなのだそうです。
門覚上人が、東大寺の修理用の国衙領を、或る時は重源上人の弟子だと言ったり、又或る時はお布施を出している旦那なのだと名乗って、年貢を一般人に分け与えているとの、噂が入って来たので、本当なのならば、それは仏法を広める気持が無いのだ。さぞかし他人の物を欲張っていると人様から批判をされるだろう。門覚上人は、将軍頼朝様の推薦で、その土地を管理しているのだから、そのような行為をしているのならば、世間の批判は関東に集ってしまう。特に辛いことだと感じられておられると、強く諌めるために、今日梶原刑部烝朝景と安達新三郎清経を京都へ派遣なされましたとさ。
多気太郎義幹が呼び出しに応じて参りましたので、三善善信、筑後権守俊兼が担当して八田知家と対決をさせました。八田右衛門尉知家が訴えて云うのには、「先月の祐成達曽我兄弟の乱暴狼藉の話を、今月の四日にお聞きしたので、直ぐに鎌倉へ来ようと思いました。それなのに義幹を一緒に誘いましたけれど、義幹は一族と家来を呼び集めて、多気山城に立て篭もって、反逆しようとしました。」とのことです。義幹はその状況の弁解をはっきり出来ませんでした。
但し、城郭を構えて軍勢を集めた事は、承知して言い逃れが出来ませんでした。それなので、常陸国筑波郡、南郡、北郡などの領地を没収され、身柄を岡辺権守泰綱に預けられました。所領などは、直ぐに今日、馬場小二郎資幹に与えられましたとさ。大江広元が処理しました。
日照りが十日以上も続いたので、庶民が雨を恋しがっています。それなので、鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺の坊さん達が雨乞いの祈りをしました。大夫属入道三善善信が担当として、それぞれに祈願文書を送りましたとさ。
故曽我十郎の愛人〔大磯の虎です。髪は切っておりませんが、黒い衣装に袈裟を着けています〕は、亡き彼氏のみなぬかの忌日を迎え、箱根山(現箱根神社)の代表者の行実坊で法事を行いました。
かな文字の追善の文書を三宝に供えて、葦毛の馬一頭を引き出物として、お経を唱えるお布施にしました。その馬は、祐成から虎への最後の贈り物でした。
そして直ぐに出家をして、信濃の善光寺へ向かいました。彼女は時に十九歳の若さでした。後にこの曽我物語りを見聞きした者は、俗人も出家も皆、涙を拭わない者はありませんでしたとさ。
八田右衛門尉知家は、義幹が野心を持っていると訴えました。
頼朝様は、これをお聞きになって驚かれて、多気太郎義幹に呼び出しの使いを派遣しました。
頼朝様は、駿河の国から鎌倉へ帰られました。
なんと曾我太郎助信はお供をしていましたが、帰り道の途中でお供を免除され、おまけに曽我庄の年貢を免除し、その費用で祐成兄弟の菩提を弔うように、おっしゃられました。これは、ひたすら彼等の勇敢さに感じられたからなのです。
祐成達曽我兄弟の乱暴狼藉の話を聞いた連中が、皆鎌倉へ走って来るので、世間は物騒がしい状態です。
八田右衛門尉知家と多気太郎義幹とは、常陸の国の大名なのです。特別に宿敵として意識しているわけでもないのですが、国の中ではお互いに、多少背比べをしている仲なのです。
そこで、八田知家はこの事件を聞いて、鎌倉へ行こうと思った時に、密かに悪巧みの思惑があって、下男を装った男を多気義幹の処へ使いに行かせました。八田右衛門尉知家は軍勢を集めて、義幹を討とうとしていると伝えて用心させました。
それなので多気太郎義幹は防戦の準備して、一族を呼び集めて、多気の山城に立て篭もりました。この情報で国中が大騒ぎです。その後で、八田知家は雑用の男を使いに出して、多気義幹に伝言をしたのには、「富士野の旅館で、乱暴狼藉があったと噂を聞いたので、今から出かけるところです。一緒に参りましょう。」と伝えたので、義幹が答えたのは、「思うところがあるので行きません。」との事でした。この使いの言葉を聞いて、義幹は尚更防備を固めましたとさ。
頼朝様の狩に、常陸国久慈郡の連中がお供に従っていましたが、祐成達の夜討を怖がって逃げてしまいました。
それなので、領地を没収されましたとさ。 頼朝様の狩に、常陸国久慈郡の連中がお供に従っていましたが、祐成達の夜討を怖がって逃げてしまいました。
それなので、領地を没収されましたとさ。
曽我十郎祐成の愛人の大磯の遊女〔虎と云います〕を呼び出してきましたが、その云っている内容だと、罪が無いので釈放しました。
又、五郎時致には、弟の僧がおります。父の川津三郎祐泰が死んだ後、五日目になって生まれたのです。そこで、伊東九郎祐清の妻が引き取って育てたのです。伊東祐清は、平家の家来になって北陸篠原合戦で打たれてしまったので、その後、その妻は大内武藏守義信に再嫁しました。その僧も母と一緒に武蔵国府(府中市)におります。「兄達と同じように処分して欲しい。」と、工藤祐経の妻子は訴えてきたので、事情を調べるために、使いを大内武蔵守義信の所へ派遣されましたそうです。祐成の継父の曽我太郎助信は、罰を恐れて魂を消すほどに心配しましたが、同意した証拠は無いので、許されましたとさ。
午後四時頃に、雑用の高三郎高綱が伝令として、富士野から鎌倉へ着きました。これは、祐成の無法な振る舞いを御台所政子様に伝えるためなのです。
又、祐成、時致の母親の元へ送る手紙を、差し出させたところ、子供の頃から父の仇討ちをしたいとの内容が、つくづくと書かれていました。
将軍頼朝様は、その健気さに感動の余り、涙を拭いながらこれを見て、ずうっと幕府の文庫に納めて置くように命じられましたとさ。
午前八時頃に、曽我五郎を頼朝様の前の庭に連れてこさせました。頼朝様の御出座です。幔幕二枚分を上げで、それなりの名の通った連中十数人がその脇に控えました。
一方には、北條時政殿、山名伊豆守義範、足利上総介義兼、北条義時殿、前豊後守毛呂季光、里見冠者義成、三浦介義澄、畠山次郎重忠、三浦佐原十郎左衛門尉義連、武田伊沢五郎信光、小笠原次郎長淸。
もう一方は、小山左衛門尉朝政、下河邊庄司行平、稲毛三郎重成、長沼五郎宗政、榛谷四郎重朝、千葉太郎胤正、宇都宮弥三郎頼綱達です。
結城七郎朝光と大友左近將監能直は、頼朝様の左右におります。
侍所長官の和田左衛門尉義盛、副官の梶原平三景時、狩野介宗茂、新開荒次郎達は、両方の座の中央におります。その他の御家人も群集っており数え切れないほどです。
そして、狩野介宗茂、新開荒次郎に命じて、夜討をした本意を尋ねさせました。五郎は、怒りをぶちまけながら云いました。「祖父の伊東次郎祐親法師が罰として殺されてからというものは、その子孫達はすっかり落ちぶれてしまったので、おそばに近づくことも許されませんが、最後に心の思う所を話すので、絶対に貴方がたを通して伝える訳にはいかない。直接にお伝えしたいので、早くそこを退いてくれ!」とのことでした。将軍頼朝様は、思うことがあるので、話す内容を直接聞くことにしました。
五郎が言うのには、「工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐために、とうとうこの身にこらえてきた仇討ちの志を表わしたわけです。祐成が九歳、時致が七歳の頃からずうっーと、仇討ちの覚悟を心に刻み、一時たりとも忘れる事は有りませんでした。そして遂に是を果たし終えたのです。次ぎに頼朝様の御前をめがけて来たのは、工藤祐経が、可愛がられていることばかりではなく、祖父の伊東祐親入道は、頼朝様に嫌われておりました。それここれも、その恨みが無いわけではありませんので、お会いになって申し上げた上で、自殺しようと思ったのです。」と云ったので、聞いている者たちは感動して舌を鳴らない者は有りませんでした。
次ぎに新田四郎忠常が、祐成の首を持ってきて、弟に見せたところ、「兄に間違い有りません。」と云いました。五郎は特別な勇者なので、許してあげたいと内心では思いましたが、工藤祐経の子供〔呼び名は犬房丸〕が泣き泣き仇討ちをせがむので、五郎〔二十歳〕を引き渡しました。鎮西中太と呼ばれる男に、直ぐに殺させましたとさ。
この曽我兄弟は、川津三郎祐泰〔伊東祐親法師の跡継ぎ〕の息子達です。川津祐泰は、去る安元二年(1176)十月頃に、伊豆奥の狩猟場で、思いもかけず矢に当たって命を亡くしました。これは工藤祐経の仕業です。その頃、祐成が五歳、時致が三歳でした。成人してからは、工藤祐経の仕業と聞き、敵を討とうと狩猟の度にお供の連中にまぎれて、工藤祐経の油断するのを待って、影のようについてまわっていたそうです。
又、現場に居合わせた遊女の手越少将達を呼び出して、その夜の詳しい状況をお尋ねになられました。祐成兄弟の行動ですと、見聞きした事を全て申しあげたそうです。
小雨が降っていましたが、昼以後は晴れました。夜中の零時頃に故伊東次郎祐親法師の孫の曽我十郎祐成と同様に五郎時致が、富士野の神野の旅の館に忍び込んで工藤左衛門尉祐経を殺害しました。又、備後国の侍で吉備津宮王藤内と云う者がおりました。平家の家来の妹尾太郎兼保に付いていたので、捕虜として捕えられていたのですが、工藤左衛門尉祐経に頼んで源氏に間違いなかったと詫びを入れたので、先日の二十日に元の領地を返されて、本国へ帰りました。それなのに、なおも工藤祐経の行為にお礼をしたいと考え、途中から戻ってきて、お酒を勧めて、一緒に泊まり話をしていたので、同様に殺されてしまいました。
工藤祐経や王藤内に混ざって居合わせた遊女の手越少将と木瀬河の亀鶴達が悲鳴を上げました。その上、祐成兄弟が、「父の敵を討ったぞ!」と大きな声で怒鳴ったので、皆大騒ぎになりました。
詳しいことは分からなくても宿泊していた侍達は皆、走り出ました。雷雨は鼓を叩くように激しく降り、真っ暗闇に光が無いので、まったく東西に迷う有様なので、祐成達のために多くの者が傷つけられました。それは、平子野平右馬允有長、愛甲三郎季隆、吉香小次郎、加藤太光員、海野小太郎幸氏、岡部弥三郎、原三郎清益、堀藤太、臼杵八郎。殺されたのは宇田五郎以下です。
兄の十郎祐成は新田四郎忠常に出会い討ち取られてしまいました。弟五郎は、頼朝様の御前をめがけて走ってきます。頼朝様は、あわてて刀を取り、これに向かおうとしましたが、そばに居た大友左近将監能直が押さえ留めました。その間に、身の回りの世話をやく小姓の五郎丸が、曽我五郎をふんづかまえてしまいました。そこで大見小平次に渡しました。それからは静まったので、侍所長官の和田義盛と副官の梶原景時が命令を受けて、工藤祐経の死骸を確認しましたとさ。
没年記事 工藤左衛門尉藤原祐経 京都朝廷御所の北面の警備兵経験者「瀧口」工藤祐継の息子
(追記)10月17日から20日まで旅行のため、掲載をお休みします。
夜明け前から勢子達に獲物を追い立てさせ、一日中狩をしていました。射手の連中はそれぞれ射芸を披露しました。毛は風に飛び、血の雨のごとく降らないことはありませんでした。
その最中に、比べる者の無いほど大きな鹿が一頭、乗馬の前に走ってきました。工藤庄司景光〔麻のさゆみの水干を着て鹿毛の乗馬〕は、頼朝様の左にいたので、「この鹿は私景光の獲物です。射取りましょう。」と申し出たので「そうするが良い。」とおっしゃられました。元々力強いの弓の名手なので、人々は皆、馬を控えてこれを見ていました。工藤景光は、多少向きを変えて獲物を弓手に構えて、矢を放ちましたが当たりませんでした。鹿は、一反ほど向こうへ駆け抜けました。景光は追いかけるため馬に鞭を打ちましたが、二の矢三の矢も同様にはずれ、鹿は山の中へ入ってしまいました。
景光は、弓を棄てて馬を止めて云いました。「工藤庄司景光は十一歳からずうっと狩猟の技を自慢としていました。そして七十余歳の今まで弓手の獲物を捕れないことはありませんでした。それなのに今は、意識がボーっとしてとても的が定まりませんでした。これはきっと、あの鹿は山の神の乗馬であることは疑い有りませんよ。神が乗っている馬を狙ったので私の寿命は縮まってしまうでしょう。後日皆さん、何かあったら思い出してください。」とのことでした。それぞれ皆が不思議な思いに捕われていたところ、夕暮れになって、景光は発病しましたとさ。
頼朝様がおっしゃられるのには、「このことは本当に怪しい出来事だ。狩をやめて帰ったほうが良いのかな。」とのことでした。長老たちが「それはないでしょう。」と云ったので、では、明日から巻狩をしようということになりましたとさ。
若君(頼家)が鹿を撃ち取った事を、将軍家(頼朝)は我子可愛さの自慢のあまりに、梶原平次左衛門尉景高を鎌倉へ行かせて、御台所(政子)にお祝いを言いに行かせました。
梶原景高は勇んで参って、女官を通して報告したところ、特にお喜びにはなりませんので、わざわざ使者にたってかえって恥をかいてしまいました。「武将の跡取りが野原で鹿や鳥を射て取るのは、特別に珍しいことではない。安易に使いをよこすなんて、かえって煩わしいだけだ。」と云われたので、梶原景高は、富士の原へ帰ってきて、今日その報告をしたんだとさ。
富士の裾野で狩をしている間に、将軍頼朝様の跡継ぎの若君頼家様が、初めて鹿を射止められました。愛甲三郎季隆は、元々狩の獲物との出会い方の昔からの言い伝えを承知しており、たまたま近くにいて、巧みに鹿を追い込んでくれたので、たちまちに鹿に矢を射込む事が出来たんだとさ。倅に手柄を立てさせてくれたので、一番褒美を与えなくてはと、大友左近将監能直にそっと愛甲三郎季隆に褒め伝えさせたんだとさ。この後、目出度い事があったので、今日の狩を打ち上げなされました。
晩になって、その場所で山ノ神へ挨拶として矢の使い始めの儀式(矢口)をなされました。江間義時様が餅を献上されました。この餅は三色です。一枚のお盆(折敷)に餅が九つ並べられ、黒色の餅三つは左側に置き、赤色の餅三つは中央に置き、白色の餅三つが右側に置かれていました。餅の大きさは、行きの長さが八寸(24cm)、間の広さが三寸(9cm)、厚さが一寸(3cm)です。以上の折敷が三枚用意されておりました。狩野介宗茂は、勢子の分の餅を進上しました。
将軍頼朝様と若君様は、行縢(ムカバキ)を笹の上に敷いてお座りになられました。足利上総介義兼、北条小四郎義時、三浦介義澄を始めとする御家人達が沢山来て、そばに控えました。その内で、鹿を射止めたときにそばに居た人で眼に留まった人達の中で、相当の弓の使い手の三人を呼び出されて、矢口祝いの餅を与えました。その人達は、一番に口にするのは工藤庄司景光、二番目は愛甲三郎季隆、三番目は曽我太郎助信です。梶原源太左衛門尉景季と工藤左衛門尉祐経、海野小太郎幸氏は配膳係として、頼朝様の御前に持ってきて、これを並べておきました。
最初に、工藤景光が呼ばれて前へ出てきて、ひざまづき(蹲踞ソンキョ)白い餅を取って真ん中に置き、赤い餅を右側に置いた。それからそれぞれを一つづつ取って重ねて〔黒が上、赤は真ん中、白が下〕、座っている左側の横に倒れた木の上に置きました。この分は山ノ神に供えたんだそうな。次に又、先と同様に三色を重ねて、三回これを齧って〔始めは真ん中を、次は左の角を、そして右の角を〕、矢叫びの声を発しました。その声は、とても小さな音でした。
次に、愛甲季隆をお呼びになりましたが、作法は工藤景光のと同じでした。ただし、餅の置き方は始めに置かれたとおりで、工藤景光のように並び替えることはありませんでした。
次ぎは、曾我太郎助信をお呼びになり、申されて云うには〔一番目と二番目は、違う作法の弓の名人を呼んでこれを渡したが、三人目はどのようするのかなぁ。〕とおっしゃられました。曾我太郎助信は、返事もせずに直ぐに三口食べました。その仕草は前の季隆と同じでした。三番目については、将軍様が聞いているのだから、一旦はこう云う形に決まっていると答えるべきではないのかなぁー。
その礼の仕方は必要だと思うので、心配りがあるべきじゃないのかなぁーと思われ、何もなしに勝手に始めたのは、とても残念だなぁーとおっしゃられました。
でも、三人に褒美として皆平等に、鞍置き馬と頼朝様が袖を通した直垂を与えました。三人は、お返しに馬、弓、狩用の矢、行縢、沓等を若君に献上しました。
それから、一緒に並んでいる座っている人達に酒が配られました。皆酔っ払いましたとさ。それから馬の世話係と勢子を呼び寄せ、饅頭を配って景気をつけましたとさ。
鮎沢(御殿場)での巻狩の準備が出来上がったので、富士野の旅館に入られました。旅館は、南向きで五間の仮設の建物を建てました。
御家人達も同じように軒を並べております。狩野介宗茂とは、途中で出会いました。北条時政殿は、予めそこへ行っていてお弁当を献上しました。
今日は、仏教の戒(殺生禁断)を守る日の「六斎日」なので狩はしないで、一日中宴会です。静岡の手越、沼津の木瀬川を始めとする近辺の遊女達が、稼ぎ時とばかり群集ってきて、頼朝様の前へ並んで挨拶をしました。
そしたら、頼朝様は里見冠者義成を呼びつけて、「これからは遊女達を取り仕切る主任になりなさい。今、すぐさま彼等が群集ってきたのを放っておいては、なにかと物騒がしいので、離れた脇に連れて行って、芸に通じている者を選び出して、リクエストに答えさせなさい。」と命じられましたとさ。これ以後、遊女の事については、彼女等の訴訟までも里見冠者義成が専用に取り継ぐことになりましたとさ。
前少将従四位下平信時さんが、鎌倉で亡くなりました。
将軍頼朝様は、特に普段から哀れみをかけておりましたので、今更ながら悲しまれましたとさ。
この人は、あの「平家にあらずんば・・」の平時忠大納言様の息子です。平家が滅びる前に、後妻の継母の告げ口によって、安房国へ追い出されていたのですが、平家が滅ぼされたので、思いがけず頼朝様の右筆として仕えていました。
将軍頼朝様は、富士野の鮎沢(御殿場)での夏の巻狩用の獲物の状態を見るために、駿河国へ出かけられました。
江間殿北条義時、足利上総介義兼、山名伊豆守義範、小山左衛門尉朝政、同長沼五郎宗政、同結城七郎朝光、里見冠者義成、佐貫四郎大夫広綱、畠山次郎重忠、三浦介義澄、同三浦平六兵衛尉義村、千葉太郎胤正、三浦十郎左衛門尉義連、下河辺庄司行平、稲毛三郎重成、和田左衛門尉義盛、榛谷四郎重朝、阿曽沼次郎広綱、工藤左衛門尉祐経、土屋兵衛尉義清、梶原平三景時、同梶原源太左衛門尉景季、同梶原平次景高、同梶原三郎兵衛尉景茂、同梶原刑部烝朝景、同梶原兵衛尉景定、糟谷藤太兵衛尉有季、岡部三郎、土岐三郎、宍戸四郎家政。波多野五郎義景、河村三郎義秀、加藤太光員、加藤次景廉、愛甲三郎季隆、海野小太郎幸氏、藤沢二郎清親、望月三郎重隆、小野寺太郎道綱、市河別当行房、沼田太郎、工藤庄司景光、同工藤小次郎行光、祢津二郎宗直、中野小太郎助光、佐々木三郎盛綱、同佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、小笠原次郎長清、武田五郎信光などがお供をしました。
そのほかにも、射手をする連中が大勢集まり、数え切れませんとさ。
蔵人所の役人大江行義の娘が、美作にある領地の年貢を梶原刑部烝朝景に横取りされたと訴えて来たので、(頼朝様は)朝景を呼び出して裁決をしました。
朝景が弁解する内容は、理屈に間違ってはいないけれども、吉田中納言が特に云ってよこしたので、「朝景はこの領地を失っても土地なしになる訳でもないだろう。しかも訴えてきている人は貧乏な人である。又、中納言が仲裁しているんだから、理屈を忘れてさっさと代官を去らして与えてはどうか。」と朝景におっしゃいましたので、すぐに承知をしました。
あえてじたばたしないのは、とても潔癖な態度だと、直接お褒めの言葉を賜りましたとさ。このおかげでその女性はほっと安心をしました。
北条時政殿が駿河国へ行かれました。
これは、巻狩の獲物の状態を見るために、頼朝様に命じられて、その国へ行かれたのです。お泊りになられる旅の舘などの事を、伊豆と駿河の両国の御家人達に命じられて、狩野介宗茂と共に準備するようにとのご意見を承知され、先に出発されたのだそうです。
常陸国の鹿島神宮は、二十年に一度は必ず式年遷宮があります。
前回が安元二年(1176)に造り終えたので、去年二十年に達したのです。それなのに多気太郎義幹を始めとする神社領を管理する地頭供が怠けているので、建設がとても遅れています。頼朝様は特に驚いて嘆いておられます。
それなので、指揮担当の伊佐為宗や小栗十郎重成に対して、機嫌が悪くなっており、八田右衛門尉知家を指名して、来る七月十日のお祭前に、早く立派に仕上げるように、云って聞かせましたとさ。
先月の十二日に恩赦が有り、流罪の人達が許されました。
佐々木左衛門尉定綱も、その中に入っていると前中納言一条能保が申し送ってきました。又、弟の佐々木中務丞次郎経高、佐々木三郎盛綱達も同じ事を云って来ました。
将軍頼朝様は大変お喜びになられました。治承四年以来、多くの手柄を立ててきたので、特に可愛がっていたのですが、比叡山の訴えで一昨年薩摩国へ流罪になっていたのです。
将軍頼朝様は、上野国(群馬県)からお戻りです。
この間に、式部大夫入道上西〔足利式部大夫義国の息子の新田大炊助義重〕の新田の屋敷で遊覧しました。
その場所から直接お帰りだそうです。
那須野などでの、狩もようやっと終えたので、分解して運んできた御殿場の鮎沢の舘を、また駿河国(静岡県)へ運ぶようにとの事でしたとさ。
昼の十二時頃に工藤左衛門尉祐経の屋敷が火事になりましたが、よそへは移りませんでした。
この家は、先だって新築引越しして、まだ三十八日しか経っていないのだそうです。家主は、将軍頼朝様の狩のお供で、下野国(栃木県)へ出かけて留守でしたとさ。
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