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2023年8月

2023年8月31日 (木)

吾妻鏡第十三巻 建久四年(1193)正月小一日己巳

将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。戻った後、ご馳走の振る舞いがありました。
千葉介常胤の負担経営です。源氏の一族と義時様、それに御家人達が庭にそろいました。
予定時刻に頼朝様のお出ましです。足利上総介義兼が席を立って御座へ進みみすを巻き上げました。大内相模守惟義が刀を差し出し、八田右衛門尉知家が弓箭を差し出し、梶原源太左衛門尉景季が乗馬袴の行縢を持ってきました。東六郎大夫胤頼が砂金を持ち、千葉介常胤は鷲の羽を差し出しました。
次ぎに庭に馬五頭を引き出しました。千葉介常胤の子供三人と孫二人が引いています。それは、相馬次郎師常、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、大須賀胤秀達です。又、今日座席の序列をお決めになられ、頼朝様ご自身で書き出した次第を下さいましたとさ。

2023年8月30日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大二十九日丁卯

東大寺の修理について、追加の命令はなんでしょうかと、佐々木前左衛門尉定綱(訂正佐々木三郎盛綱)が言って来たところなので、早く周防国の材木を運び出せと催促するようにとお命じになられたそうな。
今日、走湯神社の專光坊良暹が、年末のお経を読んだ数を届けてきました。そのついでに申し上げるのには、「熊谷次郎直実法師の京都への上洛については、さかんに私が引き止めたので、思い留まりました。ただし、安易に幕府へは戻らないでしょう。しばらく武蔵の本拠に大人しく引きこもっていることでしょう。」との事でした。

2023年8月27日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大二十八日丙寅

伊勢神宮の領地、武蔵国大河戸御厨の納税については、増加して神主分に、ここの田んぼのうち、百余町を分け与えてくださいました。
平家が管理している頃は、本宮へ納める分として、現地生産の絹百十三匹のほか
は神様用ではありませんでしたが、この機会に朝廷や幕府の安泰の為のお祈り代として、正税と一緒に免除されたのでした。云ってみれば、元からの田んぼでは、一町につき絹二匹四丈。新しく開発追加した田んぼの分は、一町につき二石。国衙管理の田んぼは、一町につき一石三斗だそうです。因幡前司大江広元と民部允藤原行政が担当しましたとさ。

2023年8月26日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大二十三日辛酉

若君の万寿丸様(後の頼家)は、この一日二日具合が悪いのです。
今日になって疱瘡が出ました。この病気は都も田舎でも流行していて、身分の高い人も低い人も皆、かかってしまうそうです。

2023年8月25日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大二十日戊午

渋谷の連中は、全く勇敢な器量を備えています。一番、頼朝様のお気持にあっているので、国衙の勤労奉仕や税を軽くしてあげるために、彼等の所領の相模国吉田庄(渋谷庄)の地頭として、納税相手の領家の三井寺門跡の一つ円満院に申請して、一定額の請負払いとし、幕府の倉から年貢をかわりに払ってやることにしました。

前右大将家頼朝様の政務機関政所から
 運び納付する相模国吉田荘園の年貢の送付について
  全部で金銭代わりの反物 六百七十三反二丈の内〔六十一反は先に〕。
  見布二百六十七反。
 染めた衣五切れの変わりに百反〔一切れにつき二十反〕。
 上質の八丈大島の絹六匹の代わりに百二十反〔一匹につき二十反〕。
 年貢用の布九反のうち〔上質が二反、中質が七反〕の代わりに?
 藍の摺り染め銭代わりの布三十反の代わりに六十反。
 紺の布二反〔無地〕の代わりに四反。
 貨物用の馬二頭の代わりに四十反。
 運び人七人の代わりに五十二反二丈。
 直税以外の先例としての熨斗鮑(のしあわび)千五百帖。
 染料の紅花の紙状に伸ばした物二十枚。
 牛革の染めたの二十枚。
以上を、労働提供指導者の助弘に担当させ、運び進上するのはこのとおりです。
   建久三年十二月二十日         平民部烝盛時 〔頼朝の花押〕

2023年8月24日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大十四日壬子

前黄門中納言一条能保から手紙が届きました。
亡くなった奥さんの遺産の所領二十箇所を、男女の子供達に分け与えました。将来食い違う事の無いように、先月の二十八日に、朝廷からの命令を出してもらいました。右中弁棟範が勅旨を伝える役で、権中納言兼光が宣言して天皇の許可を得たんだそうな。
これらは、平家から取上げて与えられた領地のうち、
摂津国福原庄、武庫御厨小松庄
、尾張国高畠庄、御器所、松枝領、美濃国小泉御厨、帷庄、津不良領、近江国今西庄、粟津庄、播磨山田領、下端庄、大和国田井、兵庫庄、丹波国篠村領、越前國足羽御厨、肥後國八代庄、備後国信敷庄、吉備津宮、淡路国志筑庄の以上二十箇所です。先日、一条能保の奥さん〔頼朝様の姉〕から譲り受けたのだそうな。

2023年8月23日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大十一日己酉

熱海の走湯神社の僧侶專光坊良暹が、使いを寄越して伝えるのには、

熊谷直実について、頼朝様のご意向を承りましたので、直ぐに東海道へ走って行ったところ、直実が京都へ向かっていたので、直ぐに出会うことが出来ました。既に僧侶の姿になっていました。しかし、その精神状態はちょっと異常です。ただ、頼朝様の仰せだからと言って引き止めましたが、承知しません。そこで、とりあえず出家した心栄えを褒めちぎって、心して私の庵へ誘って来て、同僚の坊さん達を集めて、浄土宗のありがたい話をしたので、やっと怒りが収まりました。そして一通の書状を書いて、世を棄て行方を晦ませた事をきつく諌めました。爰にいたってようやく京都へ行くことは止めておこうかと思い始めたと言いました。その手紙の下書きを送りますからなんだとさ。頼朝様は、とても感心なされました。なお、計略をめぐらして京都への上洛を思いとどまらせるようにと、おっしゃられましたとさ。

〔專光坊良暹の手紙の案文に書いてあるのは〕
遠い話では、中国西域の月氏の例を考え、近い話では、日本の古い規則では、娑婆世界を出て、出家の道に入ったならば、色々と守らなくてはならないと決められている仏教の戒律は厳しい者です。お釈迦様は、霊山金人の王舎城(ラージャガハ、古代インドマガダ国首都)を出て、檀特山(ガンダーラ)で修行をされ、なお、母の摩耶夫人の恩返しに、須弥山の頂上三十三天(とう利天)に昇り説法をなされました。花山天皇は宮中を出て剃髪し熊野さんへ向かった。又、天皇家の菩提を弔うために、那智の滝に三千日のお篭りをしました。これは皆、恩を受けていることを知って恩に報いることの仏教の根本原理を理解しているからなのでしょうね。今貴方が思いがけなく出家の道へ入り、この世を棄ててしまうのだと聞いております。それは、神仏のお心には通じているように思われがちですが、大変主君に対しては背くことになるでしょう。代々武人の家系に生まれて、弓矢の戦闘を習い覚え、己の命を顧みず、死を恐れては居ないのが武士の進む道であります。それこそが一度承諾した約束は違えません主従の契約を忘れてはいないというものです。それなのに今さっさと頭を剃って世を棄ててしまうことは、仁義の礼を変えてしまって、長年の目的を失うことになるでしょう。いかがでしょう。たとえ出家はなさっても、元のままの地位に戻られていかがでしょう。そうすれば、世評にも背かないで、神仏の意思に合う事になるでしょう。さあ、いかがですか。

この熊谷直実を諌めた手紙を後々の模範文書として伝えておくようにと、右京進中原仲業に保管させましたとさ。

2023年8月22日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大十日戊申

幕府女官の大進局が、先日戴いた伊勢国三ケ山の領地の事でぐずったので、ちゃんと文書を与えられました。
民部大夫藤原行政(二階堂)がこれを担当しましたとさ。

2023年8月21日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大五日癸卯

永福寺の完成式開眼供養の行事で、御家人達が皆鎌倉へ集って来ましたが、未だに帰らず残っています。
そこで今日、武蔵守大内義信、信濃守加々美遠光、相模守大内惟義、伊豆守山名義範、上総介足利義兼、千葉介常胤、小山左衛門尉朝政、下河辺庄司行平、小山七郎朝光、三浦介義澄、佐原左衛門尉義連、和田左衛門尉義盛達を、名越の浜の御所へ呼び集めました。
それぞれ、北の十二間の部屋に座りました。将軍頼朝様は、自ら新しく生まれた若君(後の実朝)を抱いてお出になりました。この子への可愛がりようは、特別のようです。
皆、一様に将来必ずお守りして欲しいと、丁寧なお言葉を尽くしました。そればかりか、酒が振舞われました。官女の第二局〔近衛局〕が、お銚子や盃を取って酌をしてして回りましたとさ。それなので、それぞれに若君を抱いてみては、「謹んで贈り物〔それぞれ大刀〕を献上しましょうね。」と言った後に、帰って行きましたとさ。

2023年8月20日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十二月大二日庚子

本学院の宰相僧正公顕が京都へ帰りました。
もう既に二度も、頼みを聞いてくれたので、とてもありがたい事なんだそうだ。

2023年8月19日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小二十九日戊戌

新しく生まれた若君(後の実朝)の、五十日百日の儀式です。北条時政殿が負担しました。女官が給仕をせずに、北条義時殿が手伝いをしました。若君への贈り物は、刀と砂金と鷲の羽根です。
武州大内義信、前上州藤原範信、三州源範頼、相州大内惟義、因州大江広元、千葉介常胤、小山朝政、結城朝光、畠山重忠、三浦介義澄、中村宗平、下河辺行平、八田知家、加々美遠光、藤九郎盛長、葛西清重、和田義盛、加藤次景廉、梶原景時、梶原朝景、工藤景光達に、饅頭を送ったんだそうです。

2023年8月18日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小二十五日甲午

白い雲が飛んでいましたが、昼頃から晴れました。

朝早くから、熊谷次郎直実と久下権守直光が御前で対決をしました。これは、武蔵国熊谷と久下との境界の訴訟です。熊谷直実は、武勇は一人で千人にも当たることで有名ですが、こと裁判については、言葉のやり取りに充分な力がありません。言ってる事がちぐはぐにおかしいので、将軍頼朝様から何度も質問がありました。

そんな時、直実が言うのには、「このことについて、担当の梶原平三景時が、直光をえこひいきをして、あらかじめ自分が正しいと行ってあるんじゃないの。それで今、直実は質問攻めにあっているんだ。裁決は、直光がきっと有利になってしまうだろう。これじゃー、証拠の文書も必要ないし、どうしようもない。」とまだ終わっていないのに、証拠の文書を坪庭にぶん投げて、席を立ってしまいました。

なおも、怒りは収まらず、西の溜まり場「侍所」で、自分で刀を抜いて髷(まげ)の髻(もとどり)を切ってしまい、言葉を吐き棄てました。「殿の侍に出世したけれど」だとさ。直ぐに門を出て、自宅へも帰らず行方をくらましてしまいました。

将軍頼朝様は、とてもびっくりしてしまいました。ある者が言うのには、「西へ向かって馬を飛ばしていたんで、もしかしたら京都へ行くつもりなのかもね。」だとさ。すぐに雑用を相模や伊豆のあちこちと箱根神社や伊豆山神社へ走らせました。直実の前へ行って、世捨てを止めさせるようにと、御家人や坊さん達に伝えさせましたとさ。

直光は、直実のおばの連れ合いです。その縁戚の関係で、直実は以前に直光の代理として、京都朝廷警備の「大番役」を勤めていた時に、武蔵国の同輩達が同様の役で京都におりました。その時に、連中は代官だと馬鹿にして、直実に対して無礼な態度をしました。直実は、その鬱憤を晴らそうと、新中納言平知盛の家来となり何年か過ごしました。にわかに関東へ帰る時に、石橋山の合戦がありました。平家に属して、源氏に敵対しましたが、その後は源氏に仕え、何度も戰塲で手柄を立てたのでした。

そう云う訳で、直光から離れて中納言平知盛の家来になったのが、恨み合いの元となり、年中縄張り争いをするようになったのです。

今日は、永福寺の完成式典です。両界曼荼羅の供養が有り、指導僧は法務大僧正公顕だそうです。前因幡守大江広元が仕切りました。指導僧とお供の坊さん達へのお布施は、勝長寿院のときと同じです。お布施を運んだのは十人を選びました。又、指導僧へのおまけのお布施は、銀作りの刀で、前少將時家が手渡しました。

将軍様のお出ましです。
前の警固の騎馬の武士は、
 武田五郎信光   南部三郎光行
 稲毛三郎重成   渋谷次郎高重
 三浦左衛門尉義連 土肥弥太郎遠平
 小山左衛門尉朝政 千葉新介胤正
将軍様
 小山七郎朝光が刀持ち
 佐々木三郎盛綱が将軍の鎧着
 勅使河原三郎有直が弓矢持ちだそうな。
後ろについていくお供〔それぞれ礼装の狩衣〕は、
 大内武藏守義信  源參河守範頼
 安田遠江守義定  足利上総介義兼
 大内相模守惟義  加々美信濃守遠光
 安田越後守義資  毛呂豊後守季光
 山名伊豆守義範  加賀守俊隆
 兵衛判官代義資  村上判官代義国
 藤原判官代邦道  源判官代高重
 関瀬修理亮義盛  新田藏人義兼
 奈古蔵人義行   佐貫大夫四郎廣綱
 所雑色基繁    橘左馬大夫公長
 東六郎大夫胤頼  小野三郎左衛門尉義成
 八田右衛門尉知家 足立左衛門尉遠元
 比企右衛門尉能員 後藤新兵衛尉基淸
 梶原三郎兵衛尉景茂〔梶原平三景時の子〕 梶原兵衛尉景定〔梶原刑部烝朝景の息子〕
 畠山次郎重忠   土屋三郎宗遠
 工藤庄司景光   加藤次景廉
 梶原平三景時   大江広元
後ろの警固の騎馬の武士は、
 下河辺庄司行平  和田左衛門尉義盛
 榛谷四郎重朝   葛西兵衛尉清重
 工藤左衛門尉祐経 小野刑部丞成綱野
 長沼五郎宗政   佐々木五郎義清

2023年8月17日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小二十二日辛卯

鶴岡八幡宮でお神楽を奉納しました。
これは、永福寺の開眼供養式典に邪魔者が現れないようにとのご祈祷です。相模守大内惟義が、代参をしました。

2023年8月16日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小二十日己丑

永福寺の工事が終わりました。
雲に届くような軒も、月の様に綺麗な建物も、その素晴らしさは比べる物がありません。本当にこれは、西国浄土の阿弥陀の九品の荘厳さは、関東での二階建ての寺に移って来ているにちがいない。
今日、御台所政子様も見物に来ましたとさ。

2023年8月15日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小十五日甲申

京都朝廷へ献上する馬五頭が出発です。厩務員の家重が是を連れて行ったんだとさ。

2023年8月14日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小十三日壬午

永福寺の池の庭石の配置について、まだ気に入らないところがあるので、静玄を呼んで、なおこれを直させました。
畠山次郎重忠、佐貫大夫四郎広綱、大井兵三次郎実春が、石を動かしました。三人の働きは、百人力なので、とても感心されておりましたとさ。

2023年8月13日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小五日甲戌

卯の刻(午前六時頃)新しく生まれた若君(後の実朝)の、お出かけ始め式です。藤九郎盛長の甘縄の屋敷へ参られました。輿を使いましたが、官女の大二局と阿波局がお世話をしました。
お供は、相模次郎北条朝時、信濃三郎南部光行、小山三郎、三浦平六兵衛尉義村、梶原源太左衛門尉景季、下河辺四郎政義、佐々木三郎盛綱達です。一日中おられました。お供の人達へは酒が用意されていました。藤九郎盛長は刀を差し出しました。又、お供の男女へもお土産が有りました。官女二人には、それぞれ小袖を一着、相模次郎朝時以下には、それぞれ染めた皮一枚です。亥の刻(午後十時頃)に帰りましたとさ。

2023年8月12日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十一月小二日辛未

永福寺の完成式の開眼供養を来月行うよう決めました。
指導僧が京都からやってくるので、その旅行中の雑用などを、民部大夫藤原行政と平民部烝盛時が担当するよう、今日命令がありました。
東海道の宿駅については、それぞれの国の担当を支持して決められました。
足柄山を越える際の警備の兵士は、沼田太郎、波多野五郎義景、河村三郎義秀、豊田太郎幹重、工藤介茂光が、担当するように言い含めましたとさ。

2023年8月11日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十月大三十日己巳

南風が激しいのです。午後十時頃に、牧武者所三郎宗親の浜の家が燃えてしまいました。牧宗親は、ちょうどよそに行っていて、この煙を見て走って帰り、琴を取り出そうとして、左の頬の毛を焼いてしまったそうです。
中国の大宗の頬の毛は、薬をくれた人に義理を施し、日本の牧三郎宗親の頬の毛は、琴の弦を惜しんだ証拠を表わしています。同じところを焼いたとは言え、目的は全く違いました。

2023年8月10日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十月大二十九日戊辰

永福寺の扉と仏壇の後ろの壁の絵描きが終わりました。修理少進季長がこれを描きました。
この寺は、藤原秀衡が建立した円隆寺(毛越寺金堂)を真似ました。絵については、全て毛越寺のようになりましたとさ。

2023年8月 9日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十月大二十五日甲子

二階堂永福寺の総門を建てられましたとさ。

2023年8月 8日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十月大十九日戊午

御台所政子様と新しく生まれた若君(後の実朝)とが、名越の浜御所から幕府へ移られました。
北条五郎時連、里見冠者義成、新田蔵人義兼、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、三浦左衛門尉義連、三浦平六兵衛尉義村、八田兵衛尉知重、梶原源太左衛門尉景季、梶原三郎兵衛尉景茂等がお供をしましたとさ。

2023年8月 7日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)十月大十五日甲寅

六条佐女牛若宮の領地である土佐国吾川郡(高知県吾川郡仁淀川町)は、京都警備役の大番役以外の国衙などへの勤労奉仕を免除しました。
但し、その大番の役は、若宮筆頭の季厳〔惟光の子供で(大江)広元の弟〕の指示に従って勤めるようにとおっしゃいました。その内容で佐々木中務丞次郎経高に命じましたとさ。民部大夫藤原行政と平民部烝盛時が担当だそうです。

2023年8月 6日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大二十五日甲午

幕府の女官の「姫の前」が、今夜初めて江間義時の屋敷へ嫁ぎました。
この人は、比企藤内朝宗の娘で、比べる者の無い力の有る女官です。しかも容貌はとても美人なのでだそうです。それなので、義時はこの一二年、惚れてしまい、何度も手紙を送ったのですが、全然相手にされませんでした。
将軍頼朝様はこの話を聞いて、絶対離れることは無いとの誓の手紙を取って嫁に行くように、例の女官に言ってくれたので、その誓の手紙を請求し、受け取ったので、嫁になるように決めたんだそうです。

2023年8月 5日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大十七日丙戌

来月、中納言(黄門)一条能保が、熊野大社へお参りに行くので、白い絹の反物五十反を揃えて渡すように、佐々木中務丞次郎経高に命じられました。それに加えて、立派な馬二頭を送られました。
今朝の夜明けに、雑用の鶴次郎と、厩務員の仲太がこれを連れて京都へ上りましたとさ。

2023年8月 4日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大十二日辛巳

小山左衛門尉朝政は、以前の手柄により褒美を与えられました。それは常陸国村田下庄(茨城県筑西市村田)です。そして今日、その政務事務所「政所」の命令書を戴きました。その内容は、

将軍家政務事務所「政所」が命令する 常陸国村田下庄〔下妻宮などです〕
 地頭職に任命する事
  小山左衛門尉朝政
右の事は、去る寿永二年(1183)に、志田三郎先生義広が謀反を表わして戦いを始めました。そしたら、小山朝政は一途に朝廷を守るため、一人で立ち上がって防ごうとしました。すぐに幕府の軍隊を待って一緒に引き連れて、その年の二月二十三日に、下野国(栃木県)野木神社(野木町)の辺りで戦闘をして、ずば抜けて手柄をたてました。それで、その時の褒美に地頭職に任命しました。荘園の管理者は、その辺りを良く承知して、遺漏のないようにとの命令するのはこのとおりです。
    建久三年九月十二日 案主 藤井(新藤次俊長)
  令 民部少丞藤原行政(二階堂)   知家事 中原(小中太光家)
  別当(長官) 前因幡守中原朝臣(大江広元)
         下総守源朝臣(邦業)

2023年8月 3日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大十一日庚辰

静玄が、二階堂の前の池に石を立てます。
将軍頼朝様は、昨日から主計允藤原行政の屋敷にお泊りです。それは、この作業を見るためです。
汀に埋め並べる石、金沼の汀をたどるように並んだ筋石、鵜が留まっているような島形の石など、全て今日中に立て終えました。
沼石や形石に至っては、一丈(3m)ほどもあります。
静玄の教えの通りに、畠山次郎重忠が一人で抱え持って、池の真ん中まで運んで、これを立てて置きました。
見ている人達は、その力持ちに感心しない人はありませんでしたとさ。

2023年8月 2日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大五日甲戌

右馬権頭阿野流藤原公佐さんが手紙をよこしました。
先月の二十日に、誰か人の告げ口によって朝廷の役職からはずされてしまいました。自分では何の落ち度も無いので、取り成しの手紙を貰って朝廷に訴えたいのだそうだ。
頼朝様がおっしゃられるのには、「告げ口とは言っても、全くの嘘が天皇に伝わるわけが無い。何か怠けてしまったのだろう。たぶん間違いないと思う。親戚だからといって、簡単に取り成す訳には、いかないんじゃないかなー。」だとさ。

2023年8月 1日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)九月大四日癸酉

鶴岡八幡宮の上宮の西側の祈祷壇で、一日中続ける長日の聖観音を供養するお経「観音経」と法華経の功徳を讃える講座を始めました。八幡宮の坊さん達がこれを勤めましたとさ。

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