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2023年7月

2023年7月31日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小二十七日丁卯

将軍頼朝様が、二階堂の地へお出になられました。
阿波阿闍梨静空の弟子の坊主で静玄を呼んで、お堂の前に立てる「立石」の事を相談しました。大きな岩数十個を、あちこちから取り寄せられ、積んで山のような「高岡」をつくられましたとさ。

2023年7月30日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小二十四日甲子

二階堂永福寺の土地に、初めて池を掘らせました。地形は元々水や木の似合う土地です。
鎌倉近辺の御家人に命令して、それぞれ三人の作業員をよこさせましたそうな。
将軍頼朝様が現場の様子を監督に来ました。お帰りの時間に、主計允藤原行政の家へ立ち寄られました。三浦介義澄を始めとする大物連中が酒を一甕と肴一品を持ち寄りましたとさ。

2023年7月29日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小二十二日壬戌

雑用の成里は、長い勤務に手柄があります。それなので頼朝様はとても気に入っておられます。
その事跡は御家人と比べても差が有りません。それが先だっての夏に他界しました。特にお嘆きです。
その子供を捜させたところ、その子の成沢がその話を伝え聞いて、越中(富山県)からやってまいりました。今日、初めてお会いになりました。直接哀れみのお言葉をかけられましたとさ。

2023年7月28日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小二十日庚申

将軍頼朝様は、奥様の出産場所名越の浜御所へ行かれました。
両親のそろっている縁起の良い射手を及びになり、草で鹿の形に編んだ的を射る「草鹿」の勝負をさせました。

 一番目は、梶原源太左衛門尉景季 対 比企弥四郎時員。
 二番目は、三浦平六兵衛尉義村  対 三浦太郎景連。
 三番目は、千葉境平次常秀    対 梶原兵衛尉景定〔梶原刑部烝朝景の息子〕

2023年7月27日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十六日丙辰

鶴岡八幡宮への流鏑馬などの奉納はいつもどおりです。

2023年7月26日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十五日乙卯

鶴岡八幡宮生き物を解き放つ功徳の行事の放生会の舞楽の奉納です。将軍家頼朝様は出席しません。足利上総介義兼がお参りの代理として、回廊に着きました。お祈りや踊りの奉納がありました。踊った稚児達は、

左側が、金王 滝楠 弥陀王 伊豆熊。
右側が、夜叉 観音 亀菊  良寿

今夜は、若君のお七夜の儀式は、小山左衛門尉朝政が負担しましたとさ。将軍家頼朝様と若君に馬や刀を差し上げました。又、御台所政子様へは、綾織の反物六反、すずし絹の着物三枚分を差し上げました。御所の女官達には、長絹百匹(二百反)だそうです。

2023年7月25日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十四日甲寅

鶴岡八幡宮回廊の外庭で、十五日の生き物を解き放つ功徳の行事の放生会での、奉納相撲の取り手を決めるため、予選をさせました。大和判官代藤原邦道が担当指示しましたとさ。

 一番 奈良藤次  対 荒次郎
 二番 鶴次郎   対 藤塚目
 三番 犬武五郎  対 白河黒法師
 四番 佐賀良江六 対 兼仗太郎
 五番 所司三郎  対 小熊紀太
 六番 鬼王    対 荒瀬五郎
 七番 紀六    対 王鶴
 八番 小中太   対 千手王

今夜は、若君の六夜目の儀式です。大江広元が負担しましたとさ。

2023年7月24日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十三日癸丑

若君の五夜目の儀式を下河辺庄司行平が負担しましたとさ。

2023年7月23日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十二日壬子

若君の四夜目の儀式を千葉介常胤が負担しましたとさ。

2023年7月22日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十一日辛亥

若君の三夜目の儀式を信濃守加々美遠光と藤九郎盛長が負担しましたとさ。

2023年7月21日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小十日庚戌

若君の二夜目の儀式を武蔵守大内義信と三浦介義澄が負担しましたとさ。

2023年7月20日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小九日己酉

空は晴れて、風も静かです。朝早くから御台所政子様が産気づいています。無事な出産を守る加持は宮法眼園暁で、祈祷は義慶坊と大学坊です。鶴岡八幡宮や相模国の神社仏閣に馬を寄附して、お経を上げさせました。それは、

福田寺〔酒匂〕(南足柄市和田河原の福田寺)。
平等寺〔豊田〕(平塚市豊田の平等寺)。
範隆寺〔平塚〕(平塚市平塚4丁目18春日神社別当)。
宗元寺〔三浦〕(横須賀市公郷町3丁目横須賀高校一帯
。現在はその土地の一部に名だけ継いだ曹源寺がある。
常蘇寺〔城所〕(平塚市城所浄心寺)。
王福寺〔坂本〕(
大磯町寺坂大高山王福寺)。
新樂寺〔小磯〕(大磯町西小磯金龍寺)。
高麗寺〔大磯〕は、中郡大磯町高麗2丁目9高来神社の別当寺廃寺)。
國分寺〔一宮下〕(海老名の国分寺跡か?)。
弥勒寺〔波多野〕(足柄上郡松田町寄(やどりき)の寄神社、廃寺)。
五大堂〔八幡。大會御堂と号す〕(
平塚市らしい)。
寺努寺(
逗子市沼間2丁目の神武寺)。
觀音寺〔金目〕(平塚市南金目896光明寺金目觀音)。
大山寺
伊勢原市大山の阿夫利神社、神仏分離後雨降山大山寺に分離)。
靈山寺〔日向〕(伊勢原市日向の日向薬師、塔頭の宝戒坊が残る)。
大箱根(足柄下郡箱根町元箱根80-1箱根神社。旧名は筥根權現)。
惣社〔柳田〕(中郡大磯町国府本郷の六所神社)。
一宮〔佐河大明神〕(高座郡寒川町宮山3916寒川神社)。
二宮〔河匂大明神〕(高座郡二宮町山西の川勾神社)。
三宮〔冠大明神〕(
伊勢原市三ノ宮の比々多神社)。
四宮〔前取大明神〕(平塚市四之宮4丁目14の前鳥神社)。
八幡宮(五の宮で、平塚市浅間町1平塚八幡宮)。
天滿宮(平塚天満宮で国道一号線の宮前交差点際)。
五頭宮足柄上郡中井町遠藤の五所宮八幡神社らしい)。
黒部宮〔平塚〕(平塚市平塚4丁目の春日神社の元の宮)。
賀茂〔柳下〕(小田原市らしい)。
新日吉〔柳田〕(大磯町国府新宿の日吉神社のそばの蓮華院)。

まずは、鶴岡八幡宮に馬を二頭〔上下の宮〕千葉境平次常秀、三浦太郎景連がこれを引き連れて行きました。それ以外のほかの寺社へは、その存在する土地の地頭がこれを引き受けました。梶原景季と三浦義村が指示担当をして、午前十時頃に男の子(後の実朝)が生まれました。悪魔払いの弓の弦を鳴らす鳴弦役は、平山右衛門尉季重と上野九郎光範です。和田左衛門尉義盛が同様な悪魔祓いに鏃を抜いた蟇目の矢を空に向かって射ました。暫くして、江間四郎義時様、三浦介義澄、三浦佐原十郎左衛門尉義連、小野三郎刑部丞成綱、藤九郎盛長、下妻四郎弘幹〔すさまじい奴なので悪権守と呼ばれます〕の以上六人が、お守りの短剣を差し上げました。又、因幡前司大江広元、小山左衛門尉朝政、千葉介常胤を始めとする御家人が、馬や刀を差し上げました。加持祈祷に頑張った坊さんがこれを頼朝様から与えられました。八田太郎兵衛尉知重、小野三郎左衛門尉義成、大友左近将監能直が馬を引いてくる役でした。加賀守源俊隆がおまけの褒美〔衣〕を持ってきました。次ぎに阿野全成の妻〔阿波局政子の妹〕が初めて乳を飲ませる役で来ました。御所官女の第二局(加々美遠光の娘)、上野局、下総局が介添えをしました。次ぎに名前を決める儀式があり、千万君と名付けましたとさ。

2023年7月19日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)八月小五日乙巳

征夷大将軍に任命されたので、今日、改めて幕府事務所政所の開設式を始めます。直ぐにお渡りになられました。

 事務所の主な職(家司)
 長官(別当)前因幡守中原朝臣広元   前下総守源朝臣邦業
 令     民部少丞藤原朝臣行政
 案主    藤井俊長
 知家事   中原光家

大夫属入道三善善信、筑後権守俊兼、平民部烝盛時、大和判官代藤原邦道、前隼人佐三善康淸、前豊前介実俊、中原右京進仲業らがその場に控えております。
千葉介常胤が先ず命令書(くだしぶみ)を与えられました。しかし、位が上る前は、花押を命令書に書かれていました。政所を初めて置かれたので、それを返却させて、政所の命令書(くだしぶみ)に直したところ、千葉介常胤はとても不機嫌になって云いました。「政所の命令書と言うのは、事務の連中の署名ではありませんか。それでは、子孫への名誉の証拠に置いておき難いのですよ。千葉介常胤の分は、別に頼朝様の花押を載せて戴き、子孫末代への手本にしたいのです。」とおねだりをしました。そこで希望通りにしてあげましたとさ。

  〔花押を載せられる〕
 命令する 下総の豪族千葉介常胤
 さっさと先祖伝来の領地と新しく与えられたあちこちの地頭職を、領地として掌握すること
 右の者は、去る治承年間の頃に、平家が世の中を好き勝手に掌握して、天皇家をないがしろにして、そればかりか逆らっていました。そこで、この悪人どもをやっつけてしまおうと、策略をめぐらしていたところ、千葉介常胤は天皇家を尊敬して、真っ先に味方に駆けつけました。その後、戦争での手柄といい、真面目な勤務態度といい、周りの仲間よりも秀でて勤め上げました。それなので、先祖代々の領地や、戦争による手柄として与えられたあちこちの地頭職に、政所の命令書を与えられたところなのです。その命令書の内容どおりに、子々孫々まで間違いの無いようにとの手紙は、このとおりです。
  建久三年八月五日

2023年7月18日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十九日己亥

勅使の中原景良と中原康定が京都へ帰ります。
それより前に将軍家頼朝様から、馬十三頭、絹百十匹(二百二十反)、越後上布千反、紺色の藍で摺り染めた反物百反を餞別に送らせましたとさ。小山七郎朝光が使いです。

2023年7月17日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十八日戊戌

北条時政殿の接待として、豪華な食事を勅使の二人に届けさせました。
又、小山左衛門尉朝政、千葉介常胤、畠山次郎重忠を始めとする人々が、勅使へ贈り物を準備して幕府へ届けました。
大夫属入道三善善信と筑後権守俊兼が担当して、これらを集めたのだそうです。

2023年7月16日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十七日丁酉

将軍家頼朝様は、朝廷の派遣者を幕府にお呼びになり、寝殿の公的場所南面でお会いになされました。乾杯をしました。
加賀守源俊隆、大和守山田重弘、小山七郎朝光が配膳などの担当をしました。
前少将平時家、三河守源範頼、相模守大内惟義、伊豆守山名義範達がその場に同伴しました。
頼朝様がお下がりになった後で、それぞれに鞍を載せた馬〔葦毛と鹿毛〕が与えられました。工藤左衛門尉祐経と八田太郎知重がこれを引いて来ました。
客の勅使は二人とも庭に下りて、この手綱を受け取りました。一礼して引き下がりましたとさ。

2023年7月15日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十六日丙申

京都朝廷の派遣員である検非違使庁の官人中原景良と安定達が到着しました。
征夷大将軍の辞令を持って来たのです。二人とも〔それぞれ衣冠です〕朝廷の御所の例の様に鶴岡八幡宮に並んで立ち、「派遣員に辞令をお渡ししましょう。」と云いましたので、三浦介義澄を行かせました。
三浦介義澄は、比企右衛門尉能員、和田三郎宗実と家来十人〔それぞれ鎧を着ています〕を連れて鶴岡八幡宮へ出かけ、その辞令書を受け取りました。
中原景良達に名字を聞かれたので、まだ介の辞令を貰っていないので、三浦次郎とあざなを名乗り終えると、直ぐに御所へ戻りました。
頼朝様は〔衣冠束帯〕、待ちきれず前もって西の廊下に出ていました。三浦介義澄が辞令書を目の前に捧げ持って、膝で這い出てこれを渡しました。千人万人も居る武士の中で、この役を果たし面目がたちました。死んだ父の三浦介義明は命を将軍に捧げたからなのです。その手柄は(中国の太宗にあやかって)髭を切って薬に与えても、死んでしまった後ではお返しのしようも無い。そこで、子孫を選んで名誉を与えたわけなのでした。
辞令書に書いてあるのは、

 右少史三善仲康  内舎人橘実俊  中宮権少進平知家  宮内少丞藤原定頼 大膳進源兼元
 大和守大中臣宣長 河内守小槻広房〔左大史を辞職し、任じられる〕  尾張守藤原忠明〔元は伯耆守〕
 遠江守藤原朝房〔元は陸奥守〕   近江守平棟範    陸奥守源師信   伯耆守藤原宗信〔元は近江守〕
 加賀守源雅家   若狭守藤原保家〔元は安房守〕    石見守藤原経成  長門守藤原信定
 対馬守源高行   左近将監源俊実 左衛門少志惟宗景弘 右馬允宮道式俊
   建久三年七月十二日
 征夷使
  大将軍源頼朝
 従五位下源信友

左衛門督〔源通親〕が聞き役で、参議兼忠さんがこれを書きました。将軍職については、前々から気に掛けておられましたけど、未だになれずにおりました。しかし、後白河法皇がお亡くなりになって、最初の朝廷の会議で、特に取上げられて、任命することになりましたので、わざわざ朝廷からの派遣員を出すことにしたんだとさ。話し変るが、八田右衛門尉知家の担当として、武蔵守大内義信の屋敷を指定して、勅使をお呼びして接待をしたんだとさ。

2023年7月14日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十四日甲午

頼朝様が政子様の居る名越の屋敷を訪れました。三浦介義澄が接待をしましたとさ。

2023年7月13日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十三日癸巳

御台所政子様の祈願のため、鶴岡八幡宮の僧二十五人で祈ったので、一人毎に立派な馬一頭と絹一匹(二反分)、越後上布一反を与えました。平民部烝盛時が担当しましたとさ。

2023年7月12日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大二十日庚寅

検非違使長官の一条能保から伝令が着きました。
征夷大将軍に任命されました。「その辞令は、朝廷からの使者を指定して持ってくるように希望する」と、言い送りましたとさ。

2023年7月11日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大十八日戊子

空は晴れて、風も静かで良いお日和です。
御台所政子様が、名越の屋敷に移られました〔浜の御所と申します〕。出産場所に指定されたからだそうです。

2023年7月10日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大八日戊寅

御台所政子様の具合が悪いのは既に治りました。
これは、単なる妊娠のせいだと、医者の三条左近將監が言いましたとさ。

2023年7月 9日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大四日甲戌

お産のための用意の品を、今日出産場所へそろえて届けられました。
三浦介義澄・千葉介常胤が、自分らの身内の三浦平六義村、境平次常秀を指名してこれの担当をさせました。
又、弓を鳴らして無事な出産を祈る鳴弦の役の人などをお決めになられました。梶原源太左衛門尉景季がこの指示をしました。

2023年7月 8日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)七月大三日癸酉

今朝の夜明けから、御台所政子様が、少し具合が悪いので、人々が駆けつけました。
鶴岡八幡宮長官の法眼園暁が祈祷をされているとのことです。

2023年7月 7日 (金)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)六月大二十八日戊辰

油井七郎家常が京都から到着しました。
去る十六日に若君(後の貞暁)は弥勒寺法印隆暁の仁和寺の坊に行かれました。
一条能保がこれをお連れもうしました。その坊で贈り物をしました。三河律師隆遍が取次ぎました。

2023年7月 6日 (木)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)六月大二十日庚申

美濃国(岐阜県南部)の御家人達は、守護人の大内相模守惟義の指示に従いなさいと、命じられましたとさ。それは、大内相模守惟義が警固している京都市街の盗人の群を抑えるためです。

 前右大将家の政務事務所が命令します 美濃国の御家人達へ
 さっさと大内相模守惟義の軍勢動員の指示に従うこと
 右の命令は、当国内にある荘園の地頭のうち、鎌倉の御家人と承知している者は、大内相模守惟義の軍勢動員の指示に従って、きちんと勤務するように。特に、最近京都市街に強盗などの発生を聞いております。その連中を取り押さえるために、それぞれ京都へ上り、京都市街警備の大番役を勤めるように。しかし、その中に鎌倉の御家人ではないと思っている者は、その事情を述べなさい。但し、国衙領内の者は、動員してはなりません。又同様に佐渡前司山田次郎重隆も家来達を連れて、その役を務めるように。隠れ住んでいる連中については、名前を書き出して寄越しなさい。前右大将の命じられことはこのとおりです。
  建久三年六月二十日            案主藤井(新藤次俊長)
 令民部少丞藤原(二階堂行氏行政)       知家事中原(小中太光家)
 別当(長官)前因幡守中原(大江広元)
  前下総守源朝臣(邦業)
  散位中原朝臣(親能)

2023年7月 5日 (水)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)六月大十八日戊午

鶴岡八幡宮長官の法眼園暁が京都から戻られ、直接頼朝様の所へ来てお会いになり申し上げました。
後白河法皇崩御後の後鳥羽天皇の様子をあらかた話しました。去る四月二日に、天皇は喪が明けて御所へお戻りになられ、〔三月十五日に喪明けです〕政治始めの儀式をしました。二十日の賀茂祭りは、忌中なので止めさせましたとさ。

 

2023年7月 4日 (火)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)六月大十三日癸丑

頼朝様は、新築しているお堂へ様子を見に行かれました。
畠山次郎重忠、佐貫四郎大夫広綱、城四郎長茂、工藤小次郎行光、下河辺四郎政義達が、梁や棟木を引き上げています。その力はすごくて力士数十人分のようです。筋力を使って、皆一辺に上げてしまいました。見物していた人達は其の力にビックリしています。頼朝様も感心しました。
造成工事も地鎮祭も、建築工事も、江間殿(義時)が自らこれを指図しております。その働く人の中に、夏物の乗馬袴の行縢に土を入れて運んでいる者があります。その名前を聞くと、梶原景時が申すのには「囚人の皆川権六太郎です。」とのことです。その熱心さに感心されて、直ぐに囚人身分を許されました。この人は、木曽
左馬頭義仲の有能な部下の一人です。左馬頭義仲が殺された後、囚人として梶原景時に召し預けられていたんだそうな。

2023年7月 3日 (月)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)六月大三日癸卯

頼朝様から御家人へのご恩の給付の恩沢がありました。
ある者には新しい領地を与え、ある者には以前に発給した領地を認める安堵状を頼朝様の花押のものから政所発行の下し文に改められました。
其の中で、文官、武官への表彰もありました。それは、中原右京進仲業は、側近の記録者として勤めてきましたけれど、未だに領地を与えられていませんでしたが、今日初めてこれを戴き御家人身分に並ぶことが出来ました。
藤田小三郎能国は、馬上弓の技術を引き継いでいるので、父行康の領地の継承を認められて、永く子孫達にも技術を引き継ぐようにとのことでしたとさ。

2023年7月 2日 (日)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)五月小二十六日丁酉

多賀二郎重行は、領地を召し上げられました。
それは、今日江間(北条義時)の息子の金剛丸殿(後の泰時)が歩きて遊びに出かけられた所、重行が馬に乗ったまま、その前を通り過ぎたのです。
頼朝様は、この話を聞いて、「礼儀は長幼の順を論ずるべきではない。本来はその人がどんな身分の人によるべきである。中でもとりわけ、金剛ほどの者が、お前等なんぞに一緒にされてたまるか。なんで世間の評判を気にしなかったんだ。」と直接云って聞かせました。
重行は恐れながら「全く存ぜぬことで御座います。どうか、若君と従者の方にお確かめください。」と弁解をしました。それなので、この事を聞きただしました。若君は、「そのような事はありませんでした。」と申されました。那古谷橘次頼時も同様に「重行は馬を降りました。」と話しました。それを聞いて余計にお怒りになられました。「後で追求されることを恐れもせず、平気で嘘を言って、一時の罪を逃れようとする。その心根といい、行動といい、とんでもない奴だ。」と何度も仰せになられましたそうな。「そこへゆくと若君は幼心にも助けようと云う慈悲が有り、褒めるのに値する。」とお喜びになり、刀を金剛君にお与えになられました。これは以前から大事にしていた物だそうです。その刀は、後の承久の乱の宇治合戦に着けて行かれたそうです。

2023年7月 1日 (土)

吾妻鏡第十二巻 建久三年(1192)五月小十九日庚寅

若君(後の貞暁)を京都へ上らせました。これは、仁和寺の隆暁法眼の弟子として坊に入室させるためです。
長門江太景国と江内能範、土屋弥三郎宗光、大野藤八、油井七郎家常がお供をしました。雑用の国守と厩務員の宗重達を指定して添えてやりました。
常陸平四郎の由比の家から出発です。ゆうべ頼朝様はこっそりとそこへおいでになられ、守り刀をお与えになられたそうです。

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