2022年9月30日 (金)

吾妻鏡第十巻 文治六年(1190)正月小七日壬戌

去年の奥州合戦で捕虜となった二藤次忠季は、大河次郎兼任の弟です。とても常識的なので、もう御家人となっています。ですから頼朝様から命令されたことがあって東北へ向かっていました。その途中で兄兼任の反乱の話を聞いて、今日鎌倉へ戻ってきたところです。
かれは兄弟ではあっても、全然兄に同意しない忠義心を現わすためだとの事です。特に頼朝様は気に入り、「早く奥州へ駈けて行き兼任を攻め滅ぼしなさい。」と、言い含めましたとの事です。
この忠季の別の兄の新田三郎入道は同様に兼任に反発して鎌倉へ参ったとの事です。彼等の参上で、初めて事の次第を頼朝様は知り、驚いて軍隊を派遣するように決められました。平盛時と二階堂行政に軍隊の召集の手紙を書いて、相模国より西の御家人に発しました。戦いの準備をして鎌倉へ来るようにとの事です。

2022年9月29日 (木)

吾妻鏡第十巻 文治六年(1190)正月小六日辛酉

奥州藤原氏の故泰衡の家来大河次郎兼任以下が去年の十二月以来、反逆を計画し、義経だといって出羽の国の余目町に現れ、又は木曽冠者義仲の息子の朝日冠者(義高)と名乗って秋田県横手市で蜂起して、互いに連絡を取り合って、ついに兼任は、長男の鶴太郎次男の於畿内次郎(花巻)と七千余騎の兵を連れて、鎌倉方に向かって出発した。

その道は、河北村、秋田市などを通って大関山を越えて多賀城市の国府へ出ようとして、秋田、大潟(八郎潟)で東岸の志加の渡しを冑を冠って通っていたら急に氷が解けて、五千人以上が溺れ死んでしまいました。天罰が当たったのかしら。

ここで兼任は、伝令を由利中八惟平の所へ贈って伝えました。「昔から父母兄弟妻子や連れ合いの敵討ちをすることは普通である。しかし、主人の仇討ちをした例は聞いたことがない。兼任一人がその例を始めるので鎌倉へ行くのだ。」と伝えてきたので、由利中八惟平は男鹿真山神社・百三段のあたりへ駈けて行き、闘いは二度に渡り、由利中八惟平は討たれてしまいました。勝った兼任は仙北山本郡の方へ向かい津軽に着いて又もや戦い、宇佐美平次実政等の御家人と戦目付けの雑用の沢安を殺しましたとの事です。このことによって東北に住んでいる御家人達はそれぞれに鎌倉へ伝令を発して、事件の内容を報告しましたとの事です。

2022年9月28日 (水)

吾妻鏡第十巻 文治六年(1190)正月小四日己未

出雲大社の神主の資忠が先日やってきました。
一つの神社を管理する者が、神社を空けて、何日もの旅行をして鎌倉へ下向することが二度にもなるので、頼朝様は良く思わないので、対面しませんでしたが、今日はもう国へ帰るというので、神社への崇敬の念を優先して、仕方無しに面前に呼んで、剣を出雲大社に献上するとお渡しになりました。

2022年9月27日 (火)

吾妻鏡第十巻 文治六年(1190)正月小三日戊午

九郎藤次大曽根時長は伝令として京都へ行きます。これは、鷲の羽根を上皇に献上する為です。去年献上する予定でしたが、東北からの納期が遅れたからです。
今日今年初めの外出式を行い、比企四郎能員の屋敷(たぶん妙本寺の地)へ入られました。越後守安田義資(信濃源氏)、駿河守太田広綱(源氏)新田蔵人義兼(上野源氏)、石和五郎信光(甲斐源氏)、小山七郎朝光〔太刀持ち〕以下の人々がお供をしました。

2022年9月26日 (月)

吾妻鏡第十巻 文治六年(1190)正月小一日丙辰

頼朝様は、鶴岡八幡宮へ参りました。参拝されて、帰ってこられた後、御家人からのご馳走の振舞いを受けられました。

2022年9月25日 (日)

吾妻鏡第九巻 文治五年(1189)十二月大二十八日癸丑

平泉の無量光院の平の坊さんが一人〔助公と云う〕囚人として護送されて来ました。この人は、泰衡の業績をしたって、関東に対し反抗しようとしているとの、噂があって逮捕されたのです。
今日、(侍所所司の)梶原景時に命じて、詳しい事を尋問させたら、その坊さんが謝りながら云いました。「師匠から弟子へ、その又弟子へと仏教が伝えられて来て、清衡から四代が帰依している仏法の奥義を受け継いで来ました。ここへ来て、先の九月三日に泰衡が殺されてしまったので、九月の十三夜の夜は曇っていて、明月を拝む事が出来ませんでしたので、

 昔にもあらずなるよの印には今夜の月し曇りぬるかな
(昔は既に失われてしまった夜ですね その証拠に今夜の月は曇って見えないではないですか)

このように、詩をよみました。このことは、現在をののしった訳ではありません。ただ単に、昔を偲んでいる気持なのです。特に反抗の心はありません」だとさ。
梶原平三景時は、とてもこの詩と心根を褒めて、直ぐに頼朝様にお知らせしました。(罪を攻めるどころか)かえって感激をされまして、その人を釈放し丁寧に扱われ、そればかりか褒美をお与えになられましたとさ。

2022年9月24日 (土)

吾妻鏡第九巻 文治五年(1189)十二月大二十六日辛亥

奥州平泉の捕虜達を流罪にする事が、今月十八日に公示されました。実務担当は、蔵人大輔日野家実。議事の主席は、検非違使長官の隆房。行政担当は、権右中弁平棟範朝臣だそうです。こちらから行かせた伝令が先日の十七日辰の刻(午前八時頃)に京都入りしたので、師中納言吉田経房が、直ぐに法皇に取次いだので、翌日にはこの裁決に至ったのです。陸奥出羽の扱いについては、来春にお決めになられそうです。

2022年9月23日 (金)

吾妻鏡第九巻 文治五年(1189)十二月大二十五日庚戌

伊豆と相模の二カ国の国司を早く推薦するように、言ってきたので、頼朝様は了承の返事をされました。
また、近いうちに京都へ上るからと云っている返事を出されましたとさ。「奥州平泉を統治した今となっては、法皇様にお目見えする以外には、他に望みもありません。来年には、京都へ参ります」とおっしゃられました。

2022年9月22日 (木)

吾妻鏡第九巻 文治五年(1189)十二月大二十四日己酉

工藤小次郎行光、由利中八維平、宮六兼仗近藤七国平達が、奥州へ出発しました。一連の反乱者の噂で東北地方も危ないじゃないんじゃないかと、云ってきたので、反乱者との戦いに供えるようにとの事なのです。

2022年9月21日 (水)

吾妻鏡第九巻 文治五年(1189)十二月大二十三日戊申

奥州平泉からの伝令が夜、やってきて云いました。与州義経とも木曽左典厩義仲の息子義高とも、藤原秀衡の息子だとも名乗る男がおります。それぞれ力をあわせて、鎌倉へ向けて攻めようとしているとの、噂が流れていますなんだとさ。
そこで、軍勢を北陸道(新潟経由)へ派遣しようと審議がありました。深い雪の季節ではあるけれど皆、出発準備をするようにとの命令書を、
小諸太郎光兼、佐々木三郎盛綱を始めとする越後(新潟県)信濃(長野県)の在国御家人に出す事にしました。筑後権守藤原俊兼が担当です。

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