2025年4月10日 (木)

休止します

入院をきっかけに、体力の限界を感じたので、連続記録は一旦休止します。

2025年3月29日 (土)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)二月大二十一日丙申

左衛門督頼家様が鎌倉へお帰りです。例の柳の木を引いてきて、石の坪庭内に植えられました。
紀内所行景が指揮担当です。ただし、銘木と云うほどではありませんでしたとさ。

2025年3月28日 (金)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)二月大二十日乙未

相模国の津村のあたりに、古い柳の木があって、かなり銘木だとお聞きになられたので、御所の蹴鞠をする内庭に移植したいので、その場所へ出かけられました。
北条五郎時連を始めとして六十数人がお供をしました。紀内所行景を指名してお連れになりました。

2025年3月27日 (木)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)二月大二日丁丑

京都から使いがやってきました。先月二十三日付けで、左衛門督頼家様が正三位に任命されましたとさ。

2025年3月26日 (水)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小二十九日乙亥

掃部入道中原親能の亀ケ谷の屋敷で、蹴鞠をするように前もって決めていたので、特に豪勢な準備をしました。
左衛門督頼家様が出かけようとしたら、尼御台所政子さまが、二階堂行光を使いにして伝言をしました。
「故新田入道上西は、源氏に残った長老で、武家に取って重要人物です。それなのに先日の十四日に亡くなりました。まだ死後二十日にもなっていないのに遊び歩くなんて、さぞかし人様から後ろ指をさされることになるんじゃないですか。止めなさい。」とのことでした。
左衛門督頼家様は、「蹴鞠をするのに世間の批判は関係ないじゃないですか。」と云いましたが、結局ケチがついたので取り止めにしましたとさ。

2025年3月25日 (火)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小二十八日甲戌

卯の刻(午前六時頃)大地震がありました。辰の一点(7:00~7:24)朝日に二つの輪がかかって見えました。

2025年3月24日 (月)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小十四日庚申

従五位下行大炊助源朝臣新田義重入道〔法名は上西〕が亡くなりました、年は?
〔陸奥守八幡太郎義家の孫です。式部大夫新田義国の長男。母は上野介敦基の娘です〕

2025年3月23日 (日)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小十二日戊午

またも蹴鞠です。人数は前と同じです。
なんと隼人佑三善康淸入道が、屋敷の庭に初めて蹴鞠場に四本の懸りの木(梅松柳楓)を植えました。
とても風情があるそうなので、これを見なくちゃ悔しい限りだと云われて、この人数を引き連れてすぐに、その庭へ出かけました。数は五百でした。

2025年3月22日 (土)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小十日丙辰

正月あけて最初の蹴鞠始めです。左衛門督頼家様〔狩衣〕が、お立ちになりました。
北条五郎時連・紀内所行景・冨部五郎・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直〔以上は狩衣〕大輔房源性・加賀房義印が付き合いました。数は、百二十と三百十でした。

2025年3月21日 (金)

吾妻鏡第十七巻 建仁二年(1202)正月小九日乙卯

天高く晴れあがりました。左衛門督頼家様は、鶴岡八幡宮へお参りです。天野右馬允保高が太刀持ちです。
八幡宮寺でお経の奉納がありました。指導僧は日光別当真智房法橋隆宣〔八幡宮の坊さんで長官に継ぐ一番の和尚さんです〕。

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